楞厳経原文:孫陀羅難陀は即座より立ち上がり、仏足を頂礼して仏に白しき。我れ初めて出家し、仏に従い道に入りしより、戒律を具えつつも、三摩地において心常に散動し、未だ無漏を得ず。世尊は我れ及び拘絺羅に教えて鼻端の白きを観ぜしめ給う。我れ初めて諦観すること三七日、鼻中の気の出入り煙の如きを見る。身心内明し、世界を円洞し、遍く虚浄と成ること瑠璃の如し。煙相漸く銷え、鼻息白と成る。心開け漏尽し、諸の出入息、光明と化して十方界を照らし、阿羅漢を得たり。世尊は我れに記別し、当に菩提を得べしと。仏の円通を問わしめ給うに、我は息を銷するをもってす。息久しくして発明し、明円にして漏を滅す。これ第一と為す。
孫陀羅難陀が最初に出家した時、心散乱のため三昧を修め出せず、無漏の道果を証得できなかった。世尊は彼と拘絺羅の二人に自らの鼻頭の気息が白く変化するのを観じさせた。孫陀羅難陀はわずか二十一日観じただけで、鼻中の出入りする気が煙の如く、身心世界も清浄明瞭となり、世界の全てが空虚清浄に転じ、瑠璃のように透徹することを円満に洞察した。やがて鼻孔を出入りする気息の煙相は次第に消え、白色へと転じた。この三昧中に智慧が開け煩悩が断尽し、鼻端を出入りする全ての気息が光明と化して十方世界を照らし、阿羅漢果を証得した。世尊は彼が将来無上菩提を証得することを授記された。彼の円通法門は鼻端の出入りする気息を銷融し、時を経て智慧が生起し、円満して煩悩を滅尽するものである。
孫陀羅難陀が得た三昧成就は意根観の成果であり、修証によって得られたもので、意識思惟分析から出た成果ではない。意識の如何なる作用も事物の真相と本質を見ることができず、故に成果を生じない。成果は意根の修証より来る。意根は事物の真相を見、大千世界の真相を見、五蘊の空相を見る。これらの真相は意識の思惟では得られない。意識の触れる法は意根の触れる法と一層隔たり、更に虚偽を増す。意根は如来蔵と緊密に繋がり、触れる法は帯質境であり、直接本質境より来る。中間に過渡的法なく、意識の触れる法は意根が触れた後に再び顕現したものである。意識が真相を見ることは極めて困難で、唯だ意根に依るのみ。
この法門は私が修したことなく、具体的な修行過程と殊勝なる結果を明言し難いが、大凡の修行着手処は客観的観察にあり、意識の気息への思惟分析作用を加えず、意根の直感をもって直接鼻端の気息を感知し、漸く専一に至り、定慧等持して三摩地に入る。如何なる観行法門においても、意識の思惟等の機能が起用されれば、観の状態に留まらず、当下の境界を離れ、不如実となり、結果は信頼に値せず、三昧境界を出でない。意識を用いるほど、意根観への遮障は大となり、道から遠ざかる。
故に意根観を訓練するには直観的方法を用い、意識の思惟を泯滅させ、意識に牽引作用のみを起させ、残りを全て意根に委ねる。意根の観は客観実際の観であり、現実を離れた非量の想象なく、境界の変化を主導し、境が心に随って転じ、心が境に随って転ぜず、以て身心世界を転換させる。着手処は簡易に見えれど、実際は工夫難く、その原因を究めれば心理的障碍となる人事物多く、心が纏わりついて静寂専一の観行状態に入れず、定慧共に現れず、当然修証の果は論じ得ない。
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