第一歩、深呼吸をし、心を静め、さらに静め、雑念が次第に少なくなり、ついには無くなるまで行います。
第二歩、眼識をこの成語に注視し、意識で大まかに理解し、思惟分析をせず、念を動かさず、ぼんやりとした状態、呆然とした状態、放心状態に置きます。この過程は成語の情報を意根に伝送するのに相当し、袋の中のものが一杯になったが、まだ入れるべきものが残っている場合、袋の中のものを押し込み、一旦止め、空間を空けて残りのものを入れるようなものです。押すことと止めることは、物を袋の口から底へ送ることで、送るほど空間が広がります。袋の口は意識に相当し、袋の底は意根に相当します。
第三歩、情報が全て意根に伝わった後、意根は情報の処理を開始します。この時は放心・呆然・ぼんやりとした状態を維持・延長し、意識は念を動かさず、目を閉じて精神を養う必要さえあります。
目を閉じることは眼識の意識が色を見ないことで、養われるのはもちろん意根という識神です。意根が休息すべきと感じ、色を見ないと決めると、二つの識はその決定に従い目を閉じます。もし意根が色を見たいと思えば、二つの識はどうしても目を閉じられません。もし意識が「この色は素晴らしい、もう少し見ていたい」と言い、意根が「ではしばらく見よう」と言えば、二つの識は色を見て目を閉じません。何事も意根が主導し決定します。意識が提案することもあっても、意根がその提案に同意して初めて主導決定します。二つの識が目を閉じて作為しなければ、意根は色を見ることに気を配る必要がなく、他の重要なことを考える余力が生まれます。
意識が安定し、情報が意根に伝わると、意根は思量を始めます。音もなく動静もなく、静かさのあまり意識はその存在と運行を感知し難く、故に一般に意根は愚か者や飾り物と言われ、実質的な機能がないとされます。しかし実際には五蘊の主要な機能は全て意根にあり、意根が大黒柱の役割を果たしています。
第四歩、意根はまず「患」の字を思量します。意識は分析せず、干渉せず混乱させず、意根の集中を乱さず、成語への思量から離れさせないようにします。意根を思量対象から離さないことが意識の任務であり、これを果たせないと意根の思量結果に影響が出ます。意根が既に思量に熟達していれば、意識の監督は不要です。意識は結果を急いで参与せず、絶対に思惟作用を持ってはなりません。そうでなければ意根は智慧を生じず、意識の思惟結果は真の智慧を表さず、使用できません。
最初のうちは意識が監督せず、意根も思量しないかもしれませんが、双方が努力して学べばこの段階を超え、自在に観行の道を進めるようになります。意根がある程度思量し、「患」に過失・心配・恐れ・計算などの意味があることを知り、正確な意味は後の字句を見て決定します。次に「得」の字を思量します。「得」の意味が多いため「得失」二文字を合わせて思量し、得と失の意味を確定します。何を得て何を失うかを思量すれば、五蘊世間法における財・色・名声・飲食・睡眠・親族・権勢地位など、生死流転する空法・仮法への執着であることが分かります。最後に四文字を総合すれば、「患得」は得られない心配、「患失」は得たものを失う心配であり、執着が激しく何も見破れず捨てられず、完全に我見・我執が作用する生死凡夫の心理状態であることが分かります。なんと哀れなことでしょう。
最後に何を思量するかは各人の意根の智慧と観念次第です。意根は人生全体の得失を振り返り、智慧をもって得失共に得られず、何も得ず何も失わず、無駄な騒ぎに過ぎないと悟るべきです。もちろん多くの人の意根はこの段階まで思量できませんが、徐々に練習すれば良いのです。
智慧不足、方法未熟、禅定不足のため、最初の思量練習は非常に遅く、正確でないかもしれませんが、心配無用です。いずれ熟達する日が来ます。意根が理に適った思量観行を学べば、智慧が泉のように湧き出て止まらなくなります。
かつて意識による聞思に重きを置き、大部の唯識論書に時間を費やした人々は、今振り返って損をしたとは思いませんか?数十年唯識論書を研究して、何の結果を得ましたか?今こそ基礎を補い、一歩ずつ実修に着手すべきでは?しかし意識の聞思に慣れた者は、実修時に意識が素直に静まらず、実修への障害が大きく、禅定が修め難く、観行はおろかです。理論偏重者と、実修重視で理論と実践を結びつける者との修証の差は大きく、後者は数年で三昧を修得し初果・二果に達し、如来蔵空性を悟る境地に至ります。一方前者は理論も通じず、禅定の影さえ見えません。
この対比から、理論が実践と結びつかなければ空論は国を誤り、理論が実地に落ちなければ実証は極めて困難だと悟るべきです。実地とは何処か?それは意根の処、眼識の接する処、事実真相に触れる処です。意識は虚の処、耳識の聞く処、事実真相に触れ得ぬ処なのです。
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