衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2025年04月12日    土曜日     第1開示 合計4364開示

我見断と参禅の次第に関する問題

我見を断ってから参禅するのか、それとも直接に参禅して悟りを証得するのか、これには定説はなく、素質によって異なる。法に決まった方法はないので、人によって違う。大多数の人々はまず我見を断つことを求め、五陰の仮の我をはっきり認識すべきである。そうすれば、その後の参禅において真偽を見分けられず、仮を真と見誤ることがなくなる。素質が比較的良い人で、我見の煩悩が比較的軽く、禅定も非常に優れ、意識の思惟に陥らない場合は、直接に参禅することができる。参禅の過程でまず我見を断ち、その後真実を証得する。

なぜなら、参禅とは五陰の身の中で参究し証得するものであり、五陰十八界を離れることはない。参究の過程において、五陰の身の生滅して実体なき性質を一つ一つ明らかに弁別でき、それによって我見を断除できる。古代の禅師たちが悟りを開いたのも皆このようであった。ただし、解悟者(理屈だけの悟り)がいなかったとは保証できない。禅宗一千七百則の公案のうち、全てが証悟(体験的悟り)ではない。定力が少し劣ると、意識の功徳作用が意根よりも強くなり、そうなると解悟に至る。解悟の際には、真心がぼんやりと見え、ただおおまかな影のようなものであり、観行の智慧が発起せず、煩悩が軽減されず、我見も断除できない。こうなるとかえって道業が遅れ、急げば達せず、逆効果となる。

現代人の禅定力は、一般的に古代よりもはるかに弱い。意識心の思惟が容易に鎮まらず、意根の作用が弱くなると、証悟は非常に困難であり、我見を断つことも同様に難しい。理論的な理解は多く、解悟は容易であるが、証悟はかえってより難しくなる。したがって、私たちはできる限りまず五陰無我を観行し、その後で参禅する方が比較的無難である。


——生如法師の開示
前へ前へ

「患得患失」という故事成語を考察するステップ(意根訓練編)

次へ 次へ

観行、観想、観察と想像の差異

ページトップへ戻る