我見を断じてから参禅するのか、それとも直接参禅によって悟りを証得するのか、これには定説がなく、根機によって異なる。法に定まった形はなく、人によって適する方法が異なる。大多数の人々はまず我見を断じるべきで、五蘊の仮の我を明確に認識すれば、後の参禅において真偽を見誤り、仮を真と見做すことがなくなる。根機が優れ、我見の煩悩が薄く、禅定が非常に深く、意識の思惟に陥らない者であれば、直接参禅し、その過程で我見を断じて真如を証得できる。
参禅とは五蘊身において参究証得するものであり、五蘊十八界を離れず、参究の過程で五蘊身の生滅不実性を逐一弁別し、我見を断除する。古代の禅師たちの悟道も皆この通りであったが、解悟者(理屈の理解)が存在しなかったわけではない。禅宗千七百則の公案の全てが証悟を示すものではなく、定力が不足すれば意識の功徳作用が意根を上回り、解悟に至る。解悟時には真心がぼんやりと影のように見えるだけで、観行の智慧が発現せず、煩悩が減じず、我見も断たれない。これではかえって道業を遅滞させ、急げば達せず、逆効果となる。
現代人の禅定力は概して古代より遥かに弱く、意識心の思惟を制圧し難いため、意根の作用が脆弱となり、証悟は困難で我見を断つことも難しい。理論的理解は多くても解悟は容易だが、証悟は却って困難となる。よって我々はまず五蘊無我を観行し、その後参禅する方が稳妥である。
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