衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年04月13日    日曜日     第1 回の開示 合計4365回の開示

観行、観想、観察と想像の差異

「観」とは一般的に客観的な観察を指し、現前に存在するものをそのまま観ることを意味します。これを現観あるいは直観とも呼びます。一方、「想像」とは現前には存在しないものを妄想し、現実の境界を離れて事実に基づかない空想をすることであり、現観や直観とは正反対の、意識による思考活動であり、修行における大敵です。

先日日常生活で意根を訓練する方法について述べた際、線香の先端を意識で注視するのは、意根に香頭を観察させるためであり、意識が妄念を起こさず、何かを想像したり心に映像を浮かべたりせず、意根の観察を妨げないようにすべきだと説明しました。ただの香頭に何を想像する必要があるでしょうか。それほどのことがあるはずもなく、ましてや映像が現れるなどということがあろうはずがありません。意識の妄念が止まらなければ、意根も静まることができず、心が安定しなければ観ることができません。禅定がある状態を「観」と呼び、禅定がなければそれは意識の雑念に過ぎません。意根を訓練すると同時に意識も訓練し、まず意識を妄念や雑念のない状態に導き、その後ようやく意根が訓練され、真の「観」が可能になります。意識の動きを止めた観こそが真の観であり、これによって参究に入り、三昧の境地に至り、観行と参究が成就するのです。

四念処観における「観身不浄」には呼吸観と白骨観が含まれます。呼吸は現前する法であり、観察と観行を意味します。白骨は現前で見える場合もあれば見えない場合もありますが、誰もが白骨を見た経験があり、その本質を知っているため想像を要しません。呼吸観と白骨観は観察観行とも観想とも呼べます。

「観受是苦」における「受」は自らの実体験であり、現前するか過去に経験したものであり、想像を要しません。この観は観察観行観想と呼ばれます。

「観心無常」における「心」は現前して活動する妄心であり、自ら感じ取れるものであり、想像を要しません。この観は観察観行観想と呼ばれます。

「観法無我」における「法」とは四聖諦の理、三十七道品、五蓋、五蘊十八界など、現前する法であり、想像を要しません。法を観るとは観察観行観想を意味します。

しかし智慧が不足していると、現前する法を正しく認識できず、意識の思考や想像に頼ることになり、現量の観行が不可能になります。呼吸という単純な現象でさえ、多くの人は現量で観ることができず、意識の思考に依存します。意識が動き出せば意根が覆い隠され、現量の観と思考が働かず、得られる結果は虚偽となります。

観像念仏を行う際には仏像を前に置くか描き、意識で仏像を見つつ意根で直接観じます。禅定が不十分な時は意識が意根を補助し、ある程度の思考分析を行いますが、禅定が充足すれば意識の分析を排し、意根単独の現量観が可能になります。三昧が現れると意根の現量観行の境が現前し、証量が生じ、観像念仏が成就します。この境地では意識が仏像を思おうと否と、仏像は意識に左右されず現れ、身心ともに三昧に入ります。意識が制御できないものは全て意根の現量境であり、真実かつ確かなものです。

『観無量寿経』の十六観は参照物がなく観じ難く、自らの願力と阿弥陀仏を始め諸仏菩薩の加持力に依る必要があります。第一観の日観には落日を参照物とできますが、後の十五観には一切の参照物がなく、意識による思考も不可能です。極楽世界の一草一木すら想像できず、数々の景観や宝物は地球上に存在せず、如何にして観ずべきでしょうか。しかし第一観の日観が成就し心が三昧に入れば、意根の思が開かれ、諸仏菩薩の加持を得て第二観・第三観の成就が可能となります。第三観が成就すれば如何なる状況下でも三昧は永続し、臨終まで保持され、この三昧の中で極楽往生を果たします。三昧境界を永久に保持できるのは諸仏菩薩の加持によるもので、さもなければ維持できません。故に第一観が未成就のまま後続の観を修すれば、並大抵の困難ではなく、修する方法さえ想像できないでしょう。


——生如法師の開示
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