観とは一般的に客観的な観察を指し、現前にあるものをそのまま観察することを意味し、現観や直観とも称される。一方、想像とは現前には存在しないものを妄想することで、現前の境や事実から離れた脳内補完であり、現観や直観とは対照的に、意識の思惟活動であり、修行と悟証における大忌である。
先日、日常生活における意根の訓練について述べた際に、香の先端を凝視するのは意識による行為であり、意根を引き出して香の先端を観察させるためのものであり、意識は妄念を抱かず、何かを想像せず、心の中に映像を浮かべず、意根の観察を妨げてはならないと説明した。香の先端一つに、何を想像するというのか? 一体何がそんなにあるというのか、ましてや映像まで浮かべるとは? 意識の妄念が止まらなければ、意根も静まらず、心が安定しなければ観じることはできない。禅定がある状態を観と称し、禅定がなければそれは意識の雑念に過ぎない。意根を訓練すると同時に、意識も訓練するのであり、まず意識を妄念や妄想のない状態に訓練し、雑念がなくなって初めて意根はほぼ訓練が完了したと言え、この段階で初めて観が可能となる。意識の心念を動かさない観であり、参究(公案の参究)に入ることも可能となり、その後三昧に入り、観行と参究が成就するのである。
四念処観において、身を不浄と観じるには、呼吸の観察と白骨観が含まれる。呼吸は現前に存在する法であり、観とは観察・観行を指す。白骨は現前で見えることもあれば見えないこともあるが、誰もが白骨を見たことがあり、それが何であるかを知っているため、想像する必要はない。呼吸や白骨を観じる観も、観察・観行と称され、観想とも称される。
受を苦と観じる場合、受は自らが実際に経験する感覚であり、現前に存在するか自らが経験したものであり、想像する必要はない。受を観じる観は、観察・観行・観想と称される。
心を無常と観じる場合、心は自らが現前に存在し活動する妄心であり、自らが感じ取れるものであり、想像する必要はない。心を観じる観は、観察・観行・観想と称される。
法を無我と観じる場合、法とは我々が修める四聖諦の理、三十七道品、五蓋、五蘊十八界などを指し、これらは現前に存在する法であり、想像する必要はない。法を観じるとは、観察・観行・観想を意味する。
しかしながら、智慧が不足しているため、現前に存在する法を正しく認識できず、意識の思惟や想像に頼ってしまうと、現量(直接知覚)による観行は不可能となる。呼吸という単純な現象でさえ、多くの人は現量で観ることができず、意識の思惟や想像に依存してしまう。意識が動き出すと意根が覆い隠され、現量による観と思(直観的思考)が働かなくなり、得られる結果は虚偽となる。
観像念仏(仏像を観想する念仏)では、目の前に一尊の仏像を置くか、仏像を描き、意識で仏像を見つめ、意根が直接観じる。禅定が不足している時は、意識が意根の観を補助し、多少の思惟や分析が伴う。禅定が十分に深まると、意識の分析を取り除き、意根が単独で現量を観じる。三昧が現れると、意根による観行の現量境が現前し、証量(悟りの境地)が現れ、観像念仏は成就する。この時は、意識が仏像を思おうとしまいと、仏像は現れ、意識の状態に左右されず、身心ともに三昧の状態に入る。凡て意識が制御・指揮できないものは、全て意根の現量境であり、真実で信頼できる。
『観無量寿経』の十六観には、参照物がなく観じるのが非常に困難であり、自らの願力と阿弥陀仏をはじめとする諸仏菩薩の加護力に頼る必要がある。第一観の日想観には沈む太陽が参照物となるが、後の十五観には一切の参照物がなく、意識による思惟や想像も用いることができない。極楽浄土の一草一木でさえ想像すらできず、ましてや数多くの景観や宝物は聞いたこともなく、地球上には全く存在しないため、どうやって観じればよいのか? しかしながら、第一観の日想観さえ成就し、心が三昧の状態にあれば、意根の思(直観的思考)が開かれ、それに諸仏菩薩の加護が加わって、第二観、第三観の成就が初めて望める。第三観が成就すると、その後いかなる状態にあっても三昧は永遠に消えず、臨命終時(臨終の時)まで保持され続け、この三昧の中で極楽浄土へ往生する。そして三昧の境界を永久に保持し続けるのは、諸仏菩薩の加護の結果であり、そうでなければ保持し続けることはできない。したがって、第一観が成就していない段階で直接後の幾つかの観を修めようとするのは、並大抵の困難ではなく、どうやって修めるのか想像もつかないのである。
8
+1