意根の訓練は術の範疇に属します。道の高みに達しない限り、術のみに頼っては如何なる方法でも道を見ることはできず、世俗法の中で生計を立てるために術を運用するだけです。しかし道がある程度の高みに達すれば、術は訓練せずとも自然に具わります。なぜなら道は根本であり、術は末節であるからです。道は心であり、術は心によって成り、心の一つの状態です。心が成就すれば術は自然に成就し、影が形に従うように付随します。もしある法を深く渇望し、心を尽くしてこれに専念し、他の考えがなければ、その法は必然的に骨髄にまで浸透し、意根の心に刻まれます。星移り物変わるとも、朝な夕なに揺らぐことなく、術は求めずとも自ら現れます。
意根の精力と注意力が高度に集中し、特定の事柄を個別に考量できる状態は、誰もが経験したことがあるものの、この点に気付かないだけです。例えば意根が特に好み、強い関心を持ち、特別な関心を寄せ、強い衝撃や驚愕、恐怖、驚喜、激しい感動、怒りや憤りを感じる時、これら全てが意根が一心となる瞬間です。この時意識は参加できず、意根は意識に何かを求めることなく、現在の状況に深く没入し、深い知覚と体験、思量を行います。この時意識の念動は止み、意根単独で受け取った情報や塵境を消化します。往々にして呆然自失したり放心状態になったりしますが、この時意識は思考を停止し、あたかも愚者のようになります。意根自らが迅速かつ深く思量し、従来発見できなかった事実と真実を発見します。発見後、意識は「そうだったのか」と感じ、問題の真相を知るに至ります。日常生活で遭遇するこの種の事象を総括し、自己の修証を導く方法論として結晶させれば、修行は更に深い次元に入ることができます。
総括された経験には道と術が包含されています。道とは心そのものであり、心の状態です。仏教修行の観点から見れば、これは菩提心であり、仏法に対する態度であり、善根と福德です。術とは工夫と技巧であり、道を体得した後に訓練を重ねて初めて具わり、その後成果が現れるのを待つものです。
菩提心を発するという道的側面について、私は極めて少なくしか説いてきませんでした。そのため弟子の多くは菩提心を発することへの認識が不足し、術に力を入れ過ぎる割に進歩が芳しくありません。菩提心を発することは基礎的な修学内容に属し、私に師事する弟子たちは既に具足しているべきものです。わざわざ教示する必要はなく、私の精力は初機の衆生の要求に対応できるほど許されていません。衆生の修学に必要な全ての内容を包括する余力はないのです。
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