衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年04月04日    金曜日     第1開示 合計4358開示

雑学は正精進にあらず

私たちが仏法を学び修行するのは、実践的な根本的な生死の問題を解決するためであり、理論を学ぶためではありません。理論知識は実修に必要な分だけを身につければ十分で、これ以上深く掘り下げる必要はありません。心を肝心なところに集中させましょう。意根の智慧が開発されさえすれば、以前は理解できなかった教えも明らかになり、知らなかった知識もはっきりとわかるようになります。そうして自らの智慧をまとめ、他者に伝えれば、それは他者が必要とする理論知識となり、自他ともに計り知れない利益をもたらすのです。

周利槃特迦(シューリハンタカ)が四果阿羅漢を証得した後も、依然として説法ができず、口下手でしたが、行うべきことはすべて実践し、解脱智と無生智は備えていました。ただそれを表現できないだけで、知識の幅も不足していました。それでも彼が聖者であることには何の妨げもなく、三界の生死を解脱する智慧を持っていました。リンゴを食べて腹に収めること、これが実体です。百冊もの本を書ける誇り高い貪瞋痴の煩悩に満ちた凡夫よりも、何倍も尊いことでしょうか?

多くの人々は仏法の学びと修行を理解しておらず、毎日あちこちから知識を収集することに夢中になり、役に立つかどうかに関わらず懸命に集め、ただゴマのような小さなものばかりを拾い集めています。集めた後はまたいくつか忘れてしまいます。無限の宝庫を開発せず、金の鍵を手に取ることを知りません。努力して修行しているように見えますが、実は邪精進(間違った努力)であり、精進すればするほど道から遠ざかっているのです。

ある人々は万華鏡の中の模様を研究するのが好きで、最初の模様を研究し終わらないうちに二つ目の模様に変わり、一万の模様が移り変わる中で様々な模様を追いかけ、その結果目をくらまされてしまい、結局何も理解できません。智慧のない人は、万華鏡そのものを研究して作ることを知らないのです。万華鏡さえあれば、あらゆる模様や図形を自らの心のままに掌握できる、これほど愉快なことはないでしょう? 世の中の知識は無限に爆発的に増え続けていますが、毎日追いかけていて何が得られるでしょうか? 大いなる菩提心を発し、努力して知識の宝庫となりましょう。すべての知識が自らの心から絶え間なく湧き出て、衆生が皆、あなたという知識の宝庫に頼って知識の栄養を吸収できる、これほど素晴らしいことがあるでしょうか?

なぜ、ある人は修行してそれほど長くないのに禅定が非常に深く、観行の智慧も優れ、三昧を失わないのでしょうか? 一方で、何十年も修行しているのに禅定が現れず、智慧の力が弱い人がいるのはなぜでしょうか? 愚かな犬が塊を追いかけるように、外のあらゆるものに注意を向け、すべてに興味を持ち、毎日あらゆるプラットフォームを渡り歩き、あらゆる知識を学びながら、今に至るまで何一つ成し遂げられないのです。往々にして、何も成し遂げていない人ほど自信過剰です。いったい何を根拠に自信を持っているのでしょう?

ある人の後頭部を開けてみれば、そこには絡み合った糸くずの山があり、乱雑で秩序がなく、思考に論理性が欠けていることに気づくでしょう。前の発言と次の発言が全く噛み合わず、さらに外に出て論理性のないものをむやみに学び、学べば学ぶほど頭の中の絡み合った糸くずは増えていきます。人の思考の道筋や方法は感染性があり、誰から学ぶかによってその人の思考特性が身についてしまいます。見分ける力がない時にむやみに学べば、もともと自分の智慧が弱い上に、乱雑な思考方法が感染し、自分の思考はますます直線的に進めなくなり、話はあちこちにそれて、根本や要点にたどり着けません。思考の道筋が間違っていて、果を証したり心を明らかにしたりできるでしょうか?

修行がうまくいっている人は、長い時間を禅定の中や観行の中にいます。外の雑多なものを学ばず見ないのはもちろん、師である私の話でさえ聞く気がありません。私がここで話している間、彼らの心は観行にあります。何しろ修行が肝心であり、生死の大事が最優先なのです。一方、何十年も何も修められない人は、毎日雑多で無秩序な様々な雑多な知識を吸収することに忙しく、大いに楽しんでいます。いったい何がそんなに楽しいのでしょうか? 脳はひどく詰まってしまい、一本の明確な線さえ存在しません。


——生如法師の開示
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