我々が仏法を学び修行するのは、実践的な根本的な生死の問題を解決するためであり、理論のためのものではありません。理論的な知識は実修に用いる分だけを把握すれば十分で、これ以上深く掘り下げる必要はありません。心の働きは要所に用いるべきです。意根の智慧が開発されれば、元来理解できなかった法も明らかとなり、知らなかった知識も明瞭になります。そして自らの智慧をまとめ伝えれば、他者が必要とする理論的知識となり、自他ともに計り知れない利益をもたらすのです。
周利槃特伽が四果阿羅漢を証得した後も、依然として説法ができず口下手でしたが、事実は成就していました。解脱智と無生智を備えながらも表現できず、知識面も不足していました。それでも聖人であることに障りはなく、三界の生死を解脱する智慧を具えていたのです。リンゴを腹に収めたことは真実であり、百冊の本を書ける誇大妄想的な貪瞋痴の煩悩に満ちた凡夫よりも何倍も優れていると言えるでしょう。
多くの人々は仏法修行の真髄を理解せず、日々知識収集に熱中し、有用無用を問わず懸命に集め、瑣末なことばかり拾い集めています。無限の宝庫を開発せず、金の鍵を手に取ることを知りません。一見努力しているようですが、実は邪精進であり、精進すればするほど道から遠ざかっているのです。
ある人々は万華鏡の模様を研究することを好みます。最初の模様が解明されないうちに次の模様に移り、無数の模様を追い求めるうちに目を眩ませ、結局何も理解できません。智慧なき者は万華鏡そのものを研究することを知らず、万華鏡を手にすれば全ての模様を自在に操れる喜びに気付かないのです。世の中の知識は無限に膨張し続けていますが、日々追い求めて何を得られるでしょうか。大菩提心を発し、自らを知識の宝庫とし、一切の知識が心から湧き出て、衆生がこの宝庫から知識の栄養を汲み取れるようになることこそ、何と素晴らしいことでしょう。
なぜ短期間の修行で深い禅定を得、観行の智慧に優れ三昧を保てる者がいる一方、数十年修行しても禅定が現れず智慧力が弱い者がいるのでしょうか。愚かな犬が石を追うように、外界のあらゆるものに関心を向け、毎日様々なプラットフォームを巡り、あらゆる知識を学びながら、今に至るまで何も成し得ていないのです。往々にして何も成し得ない者ほど自信過剰ですが、その根拠はどこにあるのでしょうか。
ある者たちの後頭部を開けてみれば、そこには乱雑に絡まった糸くずのような思考が存在し、前後の発言が矛盾していることに気付くでしょう。それでいて無秩序なものを学び続けるため、脳内の糸くずは増えるばかりです。人間の思考経路と様式は感染性を持ち、誰から学べばその者の思考特性を受け継ぎます。弁別力がないまま無闇に学べば、元々弱い智慧がさらに乱れた思考様式に染まり、思考は直線を保てず、話は核心から外れます。思考経路が誤っていて、どうして証果や明心が叶うでしょうか。
修行の優れた人々は定中と観行に長じ、外界の雑多なものを学ばず見ないばかりか、師である私の言葉にも耳を傾ける余裕がありません。私が話している間、彼らの心は観行にあり、何よりも修行が重要で生死の大事が最優先なのです。一方、数十年修行しても何も得られない人々は毎日雑多な知識を収集することに忙殺され、楽しげにしていますが、いったい何が楽しいのでしょう。脳内は混乱の極みで、一本の明確な思考の糸も存在しません。
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