衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年04月05日    土曜日     第1 回の開示 合計4359回の開示

道と術の関係

意根の訓練は術の範疇に属し、道の高さが達しない場合、術のみに頼っては如何なる方法でも見道することはできず、世俗法における生活の手段として術を運用することしかできない。しかし道がある程度の高さに達すれば、術を訓練する必要なく自然に備わる。なぜなら道は根本であり、術は末梢である。道は心であり、術は心によって成り、心の一つの状態である。心が成就すれば術は自然に成就し、影が形に従うが如し。もしある法を深く渇望し、心を尽くしてこれに専念し、他の考えがなければ、その法は必然的に骨髄にまで浸透し、意根の心に刻まれ、時が移り変わろうとも朝夕揺るぐことなく、術は求めずとも自ずと現れる。
意根の精力と注意力が高度に集中し、特定の事理を単独で考量できる状態は、誰もが実際に経験しているが、この点に気付かない。例えば意根が特に好み、特別な関心を持ち、非常に心配し、強く衝撃を受け、驚愕し、恐怖し、驚喜し、激しく感動し、憤怒した時、これら全てが意根が一心となる瞬間である。意識は関与できず、意根は意識を必要とせず、ただ現在の状況に没頭し、深く感知し、深く体験し、思索する。この時、意識の念動が止まり、意根単独で受け取った情報や外界の状況を消化する。往々にして呆然自失し、放心状態となり、意識は思考せず、愚者の如く、意根自らが迅速に深く思索する。その時、以前は発見できなかった事実と真実を発見し、発見後、意識は「なるほど」と感じ、問題の真相を知るのである。日常生活で遭遇するこの種の事象を総括し、自己の修行を導く方法論として昇華させれば、修行は更に深い次元に入る。
総括された経験には道と術が包含される。道とは心であり、心の状態である。仏教修行の観点から見れば、それは菩提心であり、仏法に対する態度であり、善根福德である。術とは工夫と技巧であり、道を得た後に訓練を重ねて初めて具現化され、その後成果が現れるのを待つ。
菩提心を発するという道に関して、私は極めて少なくしか説いてこなかったため、弟子の大部分が菩提心の発起に対する認識不足に陥り、術に力を入れ過ぎる割に進歩が遅い。菩提心を発することは基礎的な修行内容に属し、私に師事する弟子たちは既に備えているべきもので、特に教える必要はない。私の精力は初発心の衆生の要求に応える余裕がなく、衆生の修行に必要な全ての内容を包括する力はない。

——生如法師の開示
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四念処経における意根の訓練法(意根訓練篇)

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