衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年04月03日    木曜日     第1 回の開示 合計4357回の開示

悟り以前の正しい如理なる参禅修行

願いが叶う参禅体験:師公様によるこの数日間の弟子である私への加護に感謝申し上げます。私の功徳は計り知れないほど大きな恵みを受けました。弟子が感じた感応はあまりにも大きなものでした!

初日の夜、座禅を始めると、禅定中に不可思議な感応と感覚が現れました。今や私は歩くも臥すも常に禅定の中にあります。座禅に着座した瞬間、頭が轟くような衝撃と共に、大きな気流が排出されるかのような感覚に襲われ、心が空虚になり、何かが頭を強打したかのような衝撃で禅定から覚めました。二日目三日目は身体が禅定中に固まり動けず、三日目の夜は興奮で眠れず、この状態が続けばどうなるかと不安になりました。大腿の付け根がだるく腫れ、目も開けられず、立ち上がろうとしても身体がふらつき、平衡感覚を失ったかのようでした。

四日目に少し回復し、足のむくみも引きました。夜11時過ぎ、禅定中に力強い気流が鼻腔から迸り、禅定から覚めました。師公様の「座るだけでなく適度に動き、行禅を修し、境界に触れながら如来蔵を参究せよ」という教えを思い出し、経行を始めました。如来蔵から生じる一切の法が虚妄であると観じた瞬間、脳内に法義が旋回し、六塵の境界を感じず、ただ仏号の声が脳内で響き続けました。このような大いなる感応は言葉では表せず、深い禅定の中でしか体得できません。

数日間の感応を経て、今は身心が軽安し、正常に観行できるようになりました。日常動作の最中にも「この五蘊の身を動かしている力は何か」「衆生の色身に機能を及ぼすこの力の妙用はどうなっているか」という疑情が絶えず湧き起こります。食事中も「五蘊の身が箸を持ち食事するこの作用を執持するのは誰か」と自問せずにはいられません。

評:釈如愿の参禅の功夫は唐宋時代の禅師や仏陀時代の菩薩たちに決して劣らない。悟前の参禅功夫は時代を超えて不変である。ただ釈如愿は如来蔵の法を体系的に学び、自力より他力に依った点が古代禅師たちと異なる。古代の禅師たちは般若の理が粗略であったため、より自力に頼り深い智慧を開いた。しかし教えが直截過ぎると解悟に陥りやすい。それにも拘わらず釈如愿が解悟しなかった理由は、彼女の禅定が深く綿密で、意識による推測を許さず、ただひたすら意根で参究し続けたためである。

窓紙一重の疑情も、深い功夫の中では意識で解くことを許さない。釈如愿は修行の過程を明らかにし、月を指す指先を明白に示した。しかし多くの者には依然として把握できず、それは小乗の出離心がなく、大乗の菩提心も発起せず、修行が生活の一部に過ぎないためである。各人の修行は代替不能であり、悟りの核心を明かしても他人の証悟にはつながらない。他者の言葉で解悟することはあっても、証悟は自らの功夫によるほかないのである。

——生如法師の開示
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