願いが叶う禅の体験:師公様、この数日間、弟子である私にご加護を賜り、私の功徳が大きく大きく実りました!弟子が受けた感応はあまりにも大きなものでした!
初日の夜、座禅を組んだ際、禅定中に不可思議な感応と感覚が現れました。今や私は歩くも寝るも禅定の中にあります。あの日、座禅に着座した瞬間、頭が轟くような衝撃を受け、まるで大きな気流が一気に排出されるかのように、心が空っぽになりました。何かが私の頭を強打したかのような衝撃で、私は震えて定から出てしまいました。二日目三日目は身体が定中で動けず、定から出られませんでした。三日目の夜は興奮で眠れず、このまま数日続いたらどうなってしまうかと心配になりました。この数日、太ももの付け根がだるく腫れ、目も開けられず、立ち上がろうとしても身体が動かず、立ってもふらついて倒れそうで、小脳がバランスを失ったかのようでした。
四日目は少し回復し、動けるようになり、足のむくみも取れました。夜11時過ぎ、定中で力強い気流が鼻から突き出し、私を震わせて定から出しました。その時、座ったまま落ち着きを取り戻し、師公様の「ただ座るだけでなく、適度に動き、行禅を練り、境界に触れながら如来蔵を参究せよ」という教えを思い出しました。そこで経行を始め、如来蔵から生じる一切の法は虚妄であると観じた瞬間、脳内に法義がぐるぐる回り始め、定から出ようとしても身心が制御できず、外界の六塵境も感じられず、ただ脳内に仏号の声が旋回し続けました。このような大きな感応と覚受は言葉では表現できず、禅定の中でしか体得できず、浅い定では感じられません。
以上が数日間の感応と覚受です。今は回復し、身心が軽く自在になり、正常に法義を観行できます。今や脳裏に浮かぶ疑情や答えが次第に明瞭になり、トイレに行く時も途切れず疑情が湧きます。この木偶のような五蘊身を誰の力がトイレまで運ぶのか、この力が衆生の色殻にどう機能するのか、食事の際は自然と問いかけます。この五蘊身が手足を動かし、衣を着て飲食し、碗や箸を持つ五蘊活動を、いったい誰が執持しているのか?
評:釈願如の参禅の功夫は、唐宋時代の禅師たちにも、仏陀時代の大乗菩薩たちにも全く遜色ない。悟り前の参禅功夫は時代に関わらず同じで、更新も変化もなく、水準を下げることもできない。ただ異なる点は、釈願如が私に師事し如来蔵法を多く学びすぎたこと。あまりに直截的で整理の必要がなく、外力に頼りすぎ自力が不足している。古代の禅師たちは般若の理が粗略で、これほど詳細ではなかったため、自ら参究せざるを得ず、自力に頼り智慧を深めた。あまりに明快に説くのは弟子の参禅に不利で、解悟に陥りやすく、道業と智慧の発展を阻む。
しかしなぜ釈願如は解悟しなかったのか?彼女の疑情は窓紙の如く、突けば破れ、直接核心を指し、悟りの的、消えることなき月を指している。その理由は彼女の禅定功夫が深く緻密で、魔が来ても乱せず、誰にも遮断できないため。彼女は意識で疑情を解かず、推理も推測も妄想も分析もせず、ただ定が浅くなって意識を使えば、容易に結果を解き意識の疑情は破れるが、意根の疑情は破れない。
釈願如が意識を使わず近道せず、ただ意根で誠実に参究したため、悟った者には窓紙のように見える疑情も、彼女自身は看破できなかった。あまりに実直で手抜きせず、この深く緻密な功夫では手抜きができず、意根の疑情が重い時、意識に解く機会を与えない。
故に功夫が深く意根の疑情が重ければ、法義が直截に説かれても解悟を防げる。密義を明示されても、疑情があれば意根は参究し証明し、行証しようとし、意識の信解を許さない。こうして功夫が整い意根に疑いがあれば、過去の解悟も証悟に転じ、明らかな仏法を証明問題とし、答えを知りつつ求解過程を経る。真実の参究過程で菩薩心性が成熟し、見道の功徳と智慧が生じる。
釈願如は参禅の用功方法と過程を明らかにし、参禅の的を明白に指し示したのではないか?月を指す指が明るく輝いているのではないか?しかしそれでも多くの人には役立たず、糸口が掴めない。その理由は功夫がなく、意識の推測さえ困難で、仮に推測できても不正確で、身心に影響なく煩悩はそのまま。
最も重要なのは、小乗の出離心がなく、大乗の菩提心も発起できず、仏法修証が人生の一部で、世俗の事務が依然重要で、意根が修行を重んじないため功夫ができない。各人の修行は各人が受け、代わりは務まらない。故に参禅の最終結果を明示しても他者には無益。他人が明示したから解悟できるわけでなく、証悟はなおさら不可能。
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