問:修行がある程度進むと、外界に対して敏感になり、他人の微妙な悪意に気づきやすくなり、すぐに怒りを発しやすくなるのでしょうか。
答:そもそも自身の気の巡りが滞り、気血が塞がって通じないことが原因で、情緒が安定せず、否定的な感情が生じます。そのため他人に対し誤って悪意があるかのように感じてしまうのです。実際には必ずしもそうとは限らず、これは自らの内面の感情の投影であり反応です。情緒が安定していないため、人や出来事に遭遇すると感情を抑えきれず、怒りを発しやすくなります。ある人々は時に、性格や気質が健康状態の影響を受けやすく、身体が健康で心が穏やかになれば、あらゆる悪感情や煩悩は消え去るものです。
同じ理屈で、人は喜びの中にあってこそ心が広く寛大になり、煩悩を断じることができます。禅定はまさにこの喜びを生み出し、身心を穏やかに愉悦させ、それによって煩悩を断ずるのです。定の深さ次第で生じる喜びの程度も異なり、断じられる煩悩の次元も変わります。未到地定と初禅定は異なる次元の定であり、前者は欲界で得られ、後者は色界で得られます。欲界の未到地定で得られる喜びは程度が低く、断じられる煩悩も浅いものです。色界の初禅定で得られる喜びは程度が高く、断じられる煩悩も深層に及びます。
なぜ衆生は証果後に初禅定まで修行して初めて貪瞋痴の根本煩悩を断じられるのでしょうか。それは初禅定が「一心喜楽定」であるためです。この定にある者は内心が非常に歓喜に満ち、欲界の人間的貪欲を超越した楽によって、人間界の貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩を全て捨て去り断じるのです。こうして三果を証得します。
未到地定では貪瞋痴の根本煩悩を断じられませんが、欲界における一部の見思惑を断じ、我見を断じて初果と二果を得ます。よって小乗の果位は、無我の智慧だけでなく禅定と煩悩断絶にも関わります。定と慧があれば煩悩は必ず断じられ、煩悩の有無は定慧と密接に関係します。定慧あれば煩悩なく、定慧なければ愚痴より煩悩生ず。我見を断じて証果すれば、それらの見思惑も消滅し、身口意の行いが清浄となり、もはや大きな悪業を造作せず、重大な悪業はさらに造りません。もし人が世の中でなお大きな煩悩悪業を造り、身口意の行いが染汚されているならば、その者は我見を断じておらず、大小乗の果もなく、ましてや地上の菩薩ではあり得ないと断定できます。いかに巧みに法を説き理路整然と語ろうとも、言行に瑕疵があり染汚が多少なりともあれば、その者は凡夫と判別されるのです。
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