問題に遭遇した際、すぐに意識で思考分析して結論を急いではいけません。差し迫った事態でないなら、心を静め、雑念を可能な限り排し、ただ目の前の事柄に集中します。意識による分析も、推理も、判断も行わず、ましてや結論を下すこともありません。他の想念を空(くう)にし、この問題だけを見つめます。心の中で言語や文字を用いず、内なる声も立てず、静かに問題を凝視します。しかし心は空虚なわけではなく、問題を考えていないわけでもありません。意根(まなしき)が心の中で静かにこの問題を懸け、密かに思量しているのです。
意識は思考分析していませんが、意根はこの問題に対峙し、言語や音声を伴わずに思索し、思量しています。経験が浅く心が粗い段階では、意根の心理活動を感じ取ることはできませんが、実際には膨大な心理活動が存在します。ただ、それらが意識の活動に覆い隠されているだけです。意根のエネルギーが微弱で思考力も弱い人々がいます。雑念が多すぎて断片的であり、エネルギーが分散しているため、心力が不足し、一つの問題に集中して思考することも、問題を完全かつ合理的に深層的に解決することもできません。
衆生の智慧が劣弱である一因は、雑念が多く心が乱れ、明確な主軸や重点がないことです。あたかも戦闘チームの成員が各自勝手に行動し、団結力が分散して巨大な力を形成できず、勇敢に敵対勢力に立ち向かい勝利することができず、結果としてあらゆる敵対勢力の前に敗退してしまうようなものです。もう一つの重要な原因は福徳が薄く、深刻な福徳不足にあります。福徳の支えがないことについては、ここでは触れません。
では、智慧、特に意根の智慧を高めるためには、雑念を排し、心念を集中させ、ごく少数の重要な核心的問題に注視する能力が必要です。これを実現するには、意識を抑制し、意識の使用を控え、意識の言語・文字・音声をできるだけ動員せず、常に内なる声や独白を持たないようにします。時折、意識による内なる独白があっても構いませんが、それに加えて、意根による集中した思慮が必要です。意識が独白する一方で、意根が思慮を巡らせ、両者が注目する事柄は同一であるべきです。この時、意根のエネルギーは増大し、力が集中するため、内なる闇と無知を突破し、問題の根源を見出し、根本的に問題を解決することができます。
意根が思慮を明らかにすれば、問題を根本から解決できます。一方、意識が考え抜いた問題は、仮に解決したとしても、不完全で不安定で信頼できず、そもそも解決が容易ではありません。なぜなら、意根は主導する識(しき)であり、自ら考え抜いた問題は解決後に後悔することがないからです。意識の分析に従うと、後悔しやすく、心変わりや考えの変更も生じやすいのです。気が変わりやすい人々は、意識による思考に慣れ、意根を用いない人々であり、比較的浅薄な人々です。自分で決断できず、他人への依存を好む人々は、意根で問題を考える習慣がなく、意識を使うことに慣れています。自らの意識が当てにならないため、やむを得ず他人に依存するのです。
一方、意根で思考し問題を解決することは、確実で信頼でき、徹底的かつ究極的であり、直接根源に迫れますが、往々にして比較的遅くなります。思考が深ければ深いほど遅くなり、思考が浅ければ浅いほど速くなるからです。井戸を掘るのと同じで、深く掘れば手間がかかり遅くなり、浅く掘れば手間がかからず速くなります。しかし、遅く掘れば水が出ますが、速く掘っても水は出ません。遅いことは速く、速いことは遅いのです。効果が異なるため、速度を求めてはならず、質を最優先とします。私たちが問題を考え解決することも同様です。深く思考し決断するには時間を要しますが、丁寧な仕事は完璧な結果を生み出します。深く考える習慣を持つ人、意根を用いる習慣を持つ人は、一般的に思考が比較的遅く、行動も比較的遅いですが、相対的に智慧が最も優れ、効果も最も高く、過ちを犯しにくく、後悔しにくいものです。
物事を成し遂げ問題を解決する効果を高めたいなら、速さを求めず、深く考え抜き、意根による思考と決断を多用し、意根の思考力を鍛え、言語・文字・音声を伴わない集中力と観察力を練習すべきです。訓練を重ね、意根の使用に熟達すると、意根で思考することは非常に深みと面白みがあり、強く惹きつけられることに気付くでしょう。思考すればするほど止めたくなくなり、孤独を好み、邪魔されることを望まなくなり、智慧はますます深まり、問題解決はますます手慣れたものになります。ある人物の意根が鍛えられ、使い慣れると、その人物は非常に深遠で、内面的な深みと特質を備え、思想が深く、見解が独特で、能力が高く、何よりも肝心なのは、落ち着きがあり信頼でき、常に考えを変えることがないように見えるのです。
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