衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年04月01日    火曜日     第1 回の開示 合計4355回の開示

煩悩と禅定の関係

問:ある程度修行が進み、外界に対して敏感になると、他人の微妙な悪意に気づきやすくなり、すぐに怒りを発するようになるのでしょうか。

答:そもそも身体の気機が滞り、気血の流れが塞がれているため、情志が舒暢でない状態となります。これが負の感情を生み、他人の言動を誤って悪意と受け取ってしまうのです。実際には相手に悪意があるとは限らず、これは自らの心の投影と反応に過ぎません。情志が塞がれているため、人や出来事に接すると感情を抑えきれず、つい怒りを爆発させてしまうのです。健康状態が性格や気分に影響することは多々あり、身体が健康で心が安らげば、あらゆる不快な感情や煩悩は消え去るものです。

同様に、人は喜びの中にあってこそ心が広く煩悩を断じることができ、禅定こそがこの喜びを生み出し身心を安楽ならしめます。禅定の深さに応じて生じる喜びの程度も異なり、断じられる煩悩の次元も変わります。未到地定と初禅定は異なる次元の定であり、前者は欲界で得られ、後者は色界で得られます。欲界の未到地定では得られる喜びが浅く、断じられる煩悩も表面的です。色界の初禅定では深い喜びが得られ、根本的な煩悩が断たれるのです。

なぜ衆生は証果後に初禅定を修めて初めて貪瞋痴の根本煩悩を断じ得るのでしょうか。初禅定は一心喜楽の定であり、この定に入れば心は大いなる歓喜に満たされます。欲界の人間的欲望を超越したこの歓喜によって、人間界の貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩が全て捨て去られ、こうして三果を証得するのです。

未到地定では貪瞋痴の根本煩悩は断じ得ませんが、欲界の一部の見思惑を断じ、我見を断って初果・二果を得ます。小乗の果位は無我の智慧のみならず、禅定と煩悩断絶にも関わります。定と慧があれば必ず煩悩は断たれ、煩悩の有無は定慧と密接に関係します。定慧あれば煩悩なく、定慧なければ愚痴より煩悩生ず。故に我見を断って証果すれば、見思惑は消滅し、身口意の行いが清浄となり、もはや大きな悪業を造作することはなく、特に重大な悪業は決して造らなくなります。もし人が世間においてなお大きな煩悩悪業を造り、身口意の行いが穢れているならば、その者は我見を断っておらず、大小乗の果位を得ず、ましてや地上の菩薩ではあり得ないと断定できます。いかに巧みに法を説こうとも、言行に過ちがあり穢れがあれば、ただの凡夫と見做されるのです。


——生如法師の開示
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