問:夢の中で甲と乙の二人が対話をしている。甲が問う「受と識の中に私はあるか?」乙が答える「無我である」。問いと答えはともに意識が言語を用いた表現であるが、意根はこの問答に関与しているのか?
答:夢全体が意根によって現出したものであり、甲という人物を借りて自らの疑問を提示し、自らの意識に思考させ、代わりにこの問題を解決させるためである。意根が意識に問題解決を求めるのは、既に疑問を抱き解決を望んでいるからこそ、この夢を生じさせるのである。
言語文字で表現するのは意識の機能であるが、意識表現の背後には意根の選択と促動があり、意根の思想がある。意識は意根に促されて表現を行うもので、その内容は意識自身の見解かもしれず、意根の見解かもしれず、あるいは両者の共同見解かもしれない。もし意根がこの問題に疑情を抱かず、答えを知りたいと思わなければ、この夢を見ることはない。
もし意根が既に問題の答えを知っている場合、相手が質問した際にどのように表現するか? 意根には言語文字の機能がないため、その表現は第一に意識の言語文字音声を通じ、意識はためらうことなく即座に答える。まるで思考を経ず、考慮する必要がないかのようである。もし思考で一瞬躊躇すれば、表現されるのは概ね意識自身の見解が多い。第二に意根は意境、あるいは境界を通じて表現する可能性がある。意根は自らの思想観念と心理状態を象徴する境界を現出させる。最も深い境界は通常三昧の境地と呼ばれ、我見を断ち明心見性した際には定慧等持の三昧境界が現れ、意根が空と無我を証得したことを示す。意根が三昧の境地にある時、すなわち見道したのである。
もし意根が受と識の無我を解了証得した後、日常生活にどのような現れがあるか? 以前とどう違い、どのような心性と習気が変化するか?
白雪香の体験:日常生活の変化は極めて大きい。ただ習性が時折浮上するが、瞬時に覚照され、次第に習気の力は弱まっていく。この習性こそが業力そのものである。
如舍の体験:受と識がもたらす認知の煩わしさを気にせず、貪欲や妄念を起こす動機もなく、心中に煩悩が生じることは稀である。生活のリズムは大幅に緩やかになり、人や事柄を外部から眺めるような隔たりを感じる。ただし慈悲心が増すかどうかは未だわからない。
人や事柄に距離感を覚えるのは、それらと一定の断絶を保ち、過度に密着・依存しない状態である。これは空に近い心理状態であり、修行がある程度の成果を収め四加行の段階に入った証である。この段階を過ぎれば、我見を断つに至る。
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