衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年03月30日    日曜日     第1開示 合計4353開示

意根の表現方法

問:夢の中で甲と乙が対話している。甲が問う:「受と識の中に私は存在するか?」乙が答える:「我は存在しない」。問いと答えはどちらも意識が言語を用いた表現であるが、では意根はこの問答に参与しているのか?

答:夢全体が意根によって現出されたものであり、甲という人物を借りて自らの疑問を提示し、自らの意識に考えさせ、代わりにこの問題を解決させることを目的としている。意根が意識に問題解決を求めるのは、すでに疑念が生じ解決を望んでいるからこそ、この夢を生み出したのである。

言語文字で表現するのは意識の機能であるが、意識の表現の背後には意根の選択と推進があり、意根の思想がある。意識は意根に駆り立てられて表現するのであり、表現される内容は意識自身の観点かもしれないし、意根の観点かもしれない。あるいは両者共通の観点かもしれない。もし意根にこの問題に対する疑念がなければ、答えを知りたいと思わなければ、この夢を見ることはない。

もし意根がすでに問題の答えを知っている場合、相手が質問した時にどう表現すべきか? 意根には言語機能がないため、表現するには第一に意識の言語・文字・音声を通じる。そして意識はためらうことなく即座に答える。まるで頭を使わず、思考を必要としないかのように。もし思考して一瞬躊躇した場合、表現されるのは概ね意識自身の観点が多い。第二に、意根は意境を通じて表現するかもしれない。あるいは境界とも呼ばれる。意根は自らの思想観念や心理状態を代表する境界を現出させる。そして最も深い境界は通常、三昧境界と呼ばれる。我見を断つことと明心見性にはどちらも定慧等持の三昧境界が現れ、それは意根が空と無我を証得したことを示す。意根が三昧境界にあることは見道を意味する。

もし意根が受と識に我が無いことを解了し証得した後、日常生活にはどのような現れがあるか? 以前と何が異なるのか? どのような心性と習気が変化したのか?

白雪香の体験:日常生活の変化は非常に大きい。ただ習性が時折湧き上がるが、瞬間的に覚照される。次第に習気はますます力を失っていく。この習性こそが業力である。

如舍の体験:受と識がもたらす認知的困惑を気に留めない。貪る念や妄念を動かす動力もない。心中に煩悩が生じることは稀である。生活のリズムは以前よりずっと遅くなる。人や出来事を経験するのは、外から眺めるように隔たりがあり、疎外感がある。ただし慈悲心が増すかどうかはわからない。

人や事柄に対して疎外感を持つことは、人や事柄と一定の距離を置き、密着や依存をあまりしないことである。これは空に近い心理状態であり、修行がある程度の成果を収め、四加行の段階に入ったことを示す。この段階を過ぎれば、我見を断つことになる。


——生如法師の開示
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心空の後、なお境界は現れるのでしょうか

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意根を訓練し思考と問題解決を行う方法(意根訓練編)

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