衆生に意根が存在し、五蘊が存在する限り、如来蔵は業種と七大種子を出力し、五蘊が必要とする法を変現させ、様々な境界が現れます。諸仏菩薩も意根と五蘊を持つため、諸仏菩薩は世のあらゆる境界に存在し、縁ある衆生を広く救済しますが、これは決して諸仏菩薩の心空の証量と無我の証徳に影響を与えません。なぜなら、心空とは一切の法を滅ぼして初めて心空と呼ぶのではなく、一切の法を真実と認めず、一切の法を求めず、一切の法に執着しないことこそが心空だからです。心空は心を法から空しくし、有に落ち込まないようにすることであって、法を滅ぼして心を残すことではありません。もし法をすべて滅ぼすなら、まず意根が滅び、続いて五蘊身も滅び、この衆生は消え失せ、法もそれに従って滅びます。このようにしてその人が消滅すれば、仏法を修めることができず、成仏することもできません。ある阿羅漢が命終の際にこのようなことを行いますが、命終に至らないうちは、阿羅漢の意根と五蘊は依然として存在しており、如来蔵は阿羅漢の生存に必要な一切の法(境界を含む)を変現させます。
この問題の要点は、心空とは何かということです。心空は法を空と見て観察することであって、法を滅ぼして法を空無にすることではありません。多くの人が心空を誤解し、空とは存在しないことだと考えています。しかし心空とは、どんな法が現れても、心が法の本質が空であると知っているため、法を求めず執着せず、煩悩も生じない状態です。
もし空が存在しないことであるなら、自分は空であると考える人は、それでも食事をし物事を行うでしょうか?色身にはまだどんな活動があるでしょうか?自分自身を滅ぼしてしまったのでしょうか?空であると考える人が、なぜ口を使って話し、なぜ手を使って文字を打つのでしょうか?空であるなら存在しないのではないでしょうか?このような誤解は甚だしいものです。仏陀は最も徹底的に空を得られましたが、仏陀にも五蘊の活動があり、境界の中で説法して衆生を広く救い、さらに五蘊の法を説き、世界の成住壊空を説かれました。仏陀がこのように説かれたのは、五蘊が真実であると認められたのでしょうか?世界が真実であると認められたのでしょうか?そうではありません。仏陀が五蘊を説かれたのは、衆生が五蘊を正しく認識し、修行を通じて五蘊皆空を証得させるためであり、仏陀が世界を説かれたのは、衆生が世界を正しく認識し、修行を通じて世界が虚妄であることを証得させ、それによって心空に至らせるためです。したがって心空とは心の一つの状態を指し、境界を空にすることではありません。境界は本来空なのです。心が空であるかどうかに関わらず、境界は依然として顕現し、どんな境界が顕現しても、心は境界を空じ、境界を念わず、住まず、執着しません。
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