衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年03月29日    土曜日     第1開示 合計4352開示

心空した後にもまだ境界が顕現することはあるのでしょうか?

衆生は意根が存在し、五蘊が存在する限り、如来蔵は業種と七大種子を出力し、五蘊に必要な法を変現するので、さまざまな境界が現れます。諸仏菩薩にも意根と五蘊がありますから、諸仏菩薩は世間の一切の境界の中に存在し、縁ある衆生を広く度していますが、これは決して諸仏菩薩の心空の証量と無我の証徳に影響を与えるものではありません。なぜなら、心空とは一切の法を滅して初めて心空と称するものではなく、一切の法を真実と認めず、一切の法を追求せず、一切の法に執着しないことこそが心空だからです。心空とは心に法を空させることであり、有の中に落ちないようにすることであって、法を滅して心だけを残すことではありません。もし法をすべて滅するなら、まず意根が先に滅し、続いて五蘊の身も滅してしまい、この衆生は消失してしまい、その後、法もそれに従って滅します。そうなると、この人は消失してしまい、仏法を修めることもできず、成仏することもできません。ある種の阿羅漢は命終の時にこのようにしますが、命終に至っていない時には、阿羅漢の意根と五蘊はまだ存在しており、如来蔵は阿羅漢が生存するために必要な一切の法(境界を含む)を変現しなければなりません。

この問題の鍵となる点は、何が心空であるかということです。心空とは法を空と観じ、空と観察することであって、法を滅して空を存在しないものにすることではありません。多くの人は心空に対して誤解があり、空とは存在しないことだと考えています。しかし心空とは、どのような法が現れても、心がその法の本質は空であると知り、それゆえ法を追求せず執着せず、煩悩も生じさせないことなのです。

もし空とは存在しないことであるなら、自分は空になったと考える人は、まだ食事をしたり仕事をしたりするのでしょうか? 色身にはまだ活動があるのでしょうか? 自分自身を滅してしまったのでしょうか? 空になったと考える人は、なぜまだ口で話をし、なぜまだ手で文字を打つのでしょうか? 空になったなら存在しなくなったのではないのですか? このような誤解は非常に大きなものです。ブッダは最も徹底して空を証されましたが、ブッダにも五蘊の活動があり、境界の中で法を説いて広く衆生を度されており、しかも五蘊の法をも説かれ、世界の成住壊空をも説かれました。ブッダがこのように説かれるのは、五蘊が真実であると認めているのでしょうか? 世界が真実であると認めているのでしょうか? どちらでもありません。ブッダが五蘊を説かれるのは、衆生に五蘊を正しく認識させ、修行を通じて五蘊皆空を証得させるためであり、ブッダが世界を説かれるのは、衆生に世界を正しく認識させ、修行を通じて世界の虚妄を証得させ、それによって心空に至らせるためです。したがって、心空とは心の一つの状態を指すのであって、境界を空にすることではありません。境界はもともと空なのです。心が空であるか否かにかかわらず、境界は依然として顕現します。どのような境界が顕現しようとも、心はその境界を空とし、念じず住せず執着しないのです。


——生如法師の開示
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