意根は黙して一切の法を容れるとは、意根が一切の法と相応し、相合い、相融け、相縁することを意味し、善悪の法を含む。これはよく理解できる。もし意根が善悪の法に相応しないなら、意識はどうして善悪の法に相応できようか。意根が相応せず縁しない法があるなら、意識はどうして相応し縁することができるのか。
意根の実際の機能作用から言えば、もし意根が無記性のみを持つなら、洗濯や炊事などの無記業は意根が主導して選択するが、善行をなすことや人助けは意根が主導せず、盗みや強盗、妄語も意根が主導しないということになる。つまり意根は一部の法に対してのみ主導権と選択権を持ち、他の部分には持たない。では何が意根に一部の法のみを主導させ、他の法を主導させないのか。意根が主導できない他の法は意識が主導するのか。意識もまた主導識となるのか。意根を分断し、法を分断する、そんな道理があろうか。
もし善人がいるなら、意根が善なのか意識が善なのか、あるいは両方とも善なのか。もし人の善がただ意識の善であり、意根が善でないなら、意識が滅んだ後、意根だけが残る時、この人はまだ善人と言えるのか。意根が善でなければ、この時は善人ではない。善人が眠りにつき意識がなくなったら善人でなくなるなら、彼が行った善行はどう計算されるのか。これは非常に奇妙なことではないか。全く理解に苦しみ、どうしても道理が通らない。
この理によれば、善人は死後、今生の意識が永遠に消滅するので、さらに善人ではあり得ない。一生善行を積んだ人が、死んで誰も彼を善人と認めないなら、無念ではないか。もし国家や人民のために死んだとしても、光栄ある死とはならない。光栄の意識がなくなれば、彼に光栄称号を追贈することも、遺族に精神的・物質的補償を与えることもできない。もし善人が意識の消滅と共に、意識の行った全ての善行と貢献が消えるなら、残る意根が善でない以上、今後善人は最も死を恐れ、容易に犠牲を払わなくなるかもしれない。あるいは睡眠や昏迷を恐れるかもしれない。意識が消えれば善人のレッテルと名誉も消え、死後も善道で福を享けることができないからだ。逆に悪人は死ねば悪人でなくなり、三悪道に行かずに済むなら、悪事を働くのはどれほど得か。こうしたことは全く道理に合わない。故に善人の意根には善性があり、悪人の意根には悪性がある。あるいは善人と悪人の意根は共に善悪性を持ち、無記性を加えて三性がある。
もし意識のみが善悪を持ち、意根に善悪がないなら、善人が演劇で悪人を演じ悪事を働く時、この役者は結局善人か悪人か。仕事中や日常生活で、特に偽装が巧みな者がいる。表向きは良く振る舞い、正人君子のように見え、行動は賞賛せざるを得ないが、陰では謀略を巡らし人を陥れる。この者は結局善人か悪人か。
衆生が善行をなす時、あるいは悪を造る時、それは明暗相俟う時節である。六識が明に在り、意根が背後に在る。両者は如何にして隙なく連携するのか。表面的には六識が善悪をなすが、意根は何をしているのか。どのような心行か。如何に運営するのか。これらの善悪事に対し主宰するのか。意識に任せて善悪業を造らせるのか。意根は如何にして六識を出生させ運営するのか。如何にして六識を運営すべき善悪法の上に恰も生じさせるのか。これらの事を観察できないなら、どうして意根に善悪の心行がなく善悪性がないと断言できようか。
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