衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年03月28日    金曜日     第1 回の開示 合計4351回の開示

意根の主宰機能が意根の善悪性を決定する

意根が一切の法を黙って容れるとは、意根が一切の法と相応し、相合い、相融け、縁を結ぶことを意味します。善法も悪法も含まれます。これはよく理解できることです。もし意根が善悪の法と相応しないならば、どうして意識が善悪の法と相応できましょうか。意根が相応せず縁を結ばない法があるならば、どうして意識が相応し縁を結ぶことができましょうか。

意根の実際の機能作用から言えば、もし意根が無記性のみを持つなら、洗濯や料理といった無記業は意根が主導して選択するものですが、善行をなすことや人助けは意根が主導して選択するものではなく、盗みや強奪、妄語も意根が主導して選択するものではありません。つまり意根は一部の法に対してのみ主導権と選択権を持ち、他の部分の法には主導も選択もできないということになります。では何が意根に一部の法のみを主導させ、他の法を主導させないのでしょうか。意根が主導できない他の法は、意識が主導するのでしょうか。意識もまた主導する識となるのでしょうか。意根を分断し、法を分断する、そんな道理がありましょうか。

もし善人がいるならば、その善は意根の善か、意識の善か、あるいは両方の善でしょうか。もし人の善が意識のみの善で、意根が善でないならば、意識が滅んだ後、意根だけが残る時、その人はまだ善人と言えるでしょうか。意根が善でなければ、その時はもはや善人ではありません。善人が眠りについて意識がなくなったら善人ではなくなるなら、彼が行った善行はどう計算されるのでしょうか。この事はとても奇怪ではありませんか。全く理解に苦しみ、どうしても道理が通りません。

この理によれば、善人が死んでこの世の意識が永遠に消滅すれば、さらに善人ではあり得ません。一生善行を積んだ人が、死んで誰にも善人と認められないなら、無念ではないでしょうか。もし国家や人民のために死んだとしても、その死は栄光あるものではなくなります。栄光の意識がなくなれば、彼に栄誉称号を追贈することも、遺族に精神的・物質的補償を与えることもできません。もし善人がその意識の消滅と共に、意識のなした全ての善行と貢献が消えるなら、残る意根が善でないため、今後善人は最も死を恐れ、容易に犠牲を払わなくなるでしょう。あるいは眠りや昏倒を恐れるかもしれません。意識が消えれば善人の称号と名誉も消え、死後も善趣で福を享けることができないからです。逆に、悪人が死ねばもはや悪人ではなくなり、三悪道にも行かず、悪を行う方が得だということになります。こんなことが本当にあるでしょうか。だからこそ善人の意根には善性があり、悪人の意根には悪性がある、あるいは善人も悪人も意根に善悪性を併せ持ち、無記性を加えて三性があるのです。

もし意識のみが善悪を持ち、意根に善悪がないなら、善人が演じて悪人を演じ悪事を働く時、この役者は果たして善人か悪人でしょうか。仕事や日常生活で、特に偽善が巧みな人がいます。表向きは立派な人柄を装い、行動は賞賛に値するが、陰では謀略を巡らせ人を陥れる。このような人は結局善人か悪人でしょうか。

衆生が善をなす時、あるいは悪を造る時、それは明暗相伴う時節です。六識は明処にあり、意根は背後に潜んでいます。両者はどのように完璧に連携配合しているのでしょうか。表面的には六識が善悪を行っているように見えますが、意根は何をしているのでしょうか。どのような心の働きがあるのか。どう作用しているのか。これらの善悪事に対して主導権を行使しているのか。意識に任せて善悪業を造らせているのか。意根はどのように六識を生起させ作用させるのか。どうして六識がちょうど善悪法の上に生起するのか。これらの事を観察できないなら、どうして意根に善悪の心行がなく善悪性がないと断言できるのでしょうか。


——生如法師の開示
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意根が黙して一切法を包容することは、意根に善悪性が存在することを説明する

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