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日常開示

2025年03月27日    木曜日     第1 回の開示 合計4350回の開示

意根が黙して一切法を包容することは、意根に善悪性が存在することを説明する

楞厳経第四巻原文:如意は黙して容れ、十方三世の一切の世間出世間法を。唯だ聖と凡と、包容せざる無し。其の涯際を尽くす。当に知るべし、意根は一千二百の功徳を円満す。

釈:例えば意根は黙々と包容することができる。十方世界における過去・現在・未来の三世の一切の世間法と出世間法を、勝義諦であれ世俗諦であれ、聖人の法であれ凡夫の法であれ、全て包含し、一切法の边际を窮尽する。故に汝らは知るべきである、意根は一千二百の功徳を円満したことを。

「黙」とは黙々と、ひそかに、表立たない意味である。「容」は包容、受容、具有、作意、触、想、思、相応、縁、知、見の意である。何故意根が黙々とひそかに一切法を縁り、一切に触れ、一切法を見、一切法を知り、一切法を排斥しないのか。黙々たる所以は、意根は言葉を発せず、文字を書かず、文字・言語・音声によって自らの心心行を伝達・顕彰することができないためである。ひそかなる所以は、意識がほとんどの場合、意根を理解せず、その心行と運作、及びその功徳を知見しないため、ひそかと呼ばれる。もし意識が完全に意根の功徳と一切法における運作を明らかにするならば、もはやひそかではない。

意根が一切法を包容するとは、一切法を縁じ、包容・受容し、一切法を了別し、一切法を知見し、一切法において五遍行心所法を運行し、一切法と相応することを意味する。当然、善悪法とも相応し、善悪を包容し、自ら善性と悪性を具える。意根が縁じる法の範囲は極めて広大無辺であり、意識の縁じる法は意根の縁じる法と比べるべくもない。二者共に如来蔵の縁じる法の広大さには及ばない。

意根が縁じるこれら一切法には何が含まれるか。まず十方世界三世の法、これは世俗界における空間的範囲が最大であり、時間的範囲は過去現在未来もまた最大である。この最大の時空中で意根が縁じる法は、一切世間法、即ち如来蔵が七大種子によって生成した後の法、例えば色法・心法・心所有法を含み、また世間において運行・顕現すべき出世間法、例えば如来蔵・仏性・真如、及び聖人の行う道である勝義諦・第一義諦をも含む。聖凡共に包含され、一切法の边际に至るまで、意根がもはや縁じ得ない法、如来蔵のみが単独で縁じる法、及び世間相を具えず世間において運行しない法に及ぶ。

意根がこれほど広大な範囲の法を包容し、既に世間において運行する法の边际を窮尽したが故に、一千二百の功徳を具足し、最も円満している。如来蔵の功徳に次ぐものである。ならば意根は疑いなく聖人の法と凡夫の法を包容し、善悪の法を包容し、善悪性・善悪心所法・心行を具足している。もしそうでなければ、意根の功徳は一切法の边际を窮尽せず、不包容の法あり、その功徳は円満しない。

この段は世尊が意根の功徳を説かれた際の言葉である。意根は一千二百の功徳を円満するが、意識の功徳が円満とは説かれない。なぜなら意識は生滅を繰り返し、自主性がなく三世を貫徹できず、現世の法すら周全できず、多くの法を縁じ了別することができず、まして十方三世の法には縁じ得ないからである。故に意識は不究竟の法であり、根本の法ではなく、依頼に値しない。修行は必ず根本の法、依頼すべき法、自主的な法を修め、意根の無明を除去し、意根の智慧を円満して初めて仏と成るのである。


——生如法師の開示
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