楞厳経第四巻原文:如意は黙して容る。十方三世。一切の世間出世間の法。唯だ聖と凡と。包容せざる無し。其の涯際を尽くす。当に知るべし、意根は一千二百の功徳を円満す。
釈:例えば意根は黙々と包容することができ、十方世界の過去・現在・未来の三世における一切の世間法と出世間法を、勝義諦であれ世俗諦であれ、聖人の法であれ凡夫の法であれ、すべて包含し、一切の法の限界を窮め尽くす。したがって、あなたがたは知るべきである、意根は一千二百の功徳を円満したと。
「黙」とは黙々と、ひそかに、表立たずという意味である。「容」とは包容する、受け入れる、具える、作意、触、想、思、相応、縁、知、見という意味である。なぜ意根はひそかに黙々と一切の法を縁り、一切に触れ、一切の法を見、一切の法を知り、一切の法を排斥しないのか。黙々としているのは、意根が言葉を発せず、文字を書かず、文字と言語と音声を用いて自らの心心所の行いを伝達・顕彰できないからである。ひそかであるのは、意識がほとんどの場合、意根を理解せず、その心の行いと運作、およびその功徳を知らず見ないためである。ゆえに「ひそか」と呼ばれる。もし意識が完全に意根の功徳と一切の法における運作を明らかに理解すれば、もはや「ひそか」ではなくなる。
意根が一切の法を包容できるとは、一切の法を縁じ、包容し、受け入れ、一切の法を了別し、一切の法を知り見ることができ、一切の法においてその五遍行心所法を運行し、一切の法と相応し、当然に善悪の法とも相応し、善悪を包容し、自ら善性と悪性を具えることを意味する。意根が縁じ、所縁とする一切の法の範囲は極めて広大無辺であり、意識が縁じる法は意根が縁じる法と比べるべくもなく、いずれも如来蔵が縁じる法の広大さには及ばない。
意根が縁じるこれら一切の法には何が含まれるのか。まず第一に十方世界三世の法であり、これは世俗界において空間的範囲が最も大きく、時間的範囲は過去・現在・未来でこれも最大である。この最大の時空において意根が縁じる法は、一切の世間法、すなわち如来蔵が七大種子を用いて生成した後の有為の法、例えば色法、心法、心所有法を含み、また世間において運行し顕現せざるを得ない出世間法、例えば如来蔵、仏性、真如、および聖人が行う道である勝義諦・第一義諦をも含み、聖人も凡夫もすべてその中に包含され、一切の法の辺際に至るまで及ぶ。意根がもはや縁じ得ないのは、如来蔵のみが単独で縁じる法、および世間相を具えず、世間において運行しない法である。
意根がこれほど広範な法を包容できるゆえに、すでに世間において運行する法の辺際を窮め尽くしている。したがって、意根は一千二百の功徳を具足し、最も円満であり、如来蔵の功徳に次ぐものである。そうであれば、意根が疑いなく聖人の法と凡夫の法を包容し、善悪の法を包容し、善悪性・善悪心所法および心行を具足していることは明らかである。もしそうでなければ、意根の功徳は一切の法の辺際を窮め尽くしておらず、包容しない法があることになり、その功徳は円満ではない。
この一節は世尊が意根の功徳について説かれたものであり、意根が一千二百の功徳を円満すると述べ、意識の功徳が円満とは説かれていない。なぜなら意識は生滅を繰り返し、自主性がなく、三世を貫徹できず、現世の法すら周全できず、多くの法を縁じることができず、了別できない。ましてや十方三世の法はさらに縁じ得ないからである。ゆえに意識は不究竟の法であり、根本の法ではなく、依存に値しない。修行は必ず根本の法、依存できる法、自主性のある法を修め、意根の無明を除去し、意根の智慧を円満にして初めて成仏できるのである。
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