衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年03月25日    火曜日     第1開示 合計4349開示

意根の決定的役割

眼根が色塵に触れるには、外眼根が外色塵に触れる場合と、内眼根が内色塵に触れる場合に分けられます。眼識が生じて色塵を了別するためには、内眼根が内色塵に触れる必要があります。しかし眼根は物質的な色法であり、心ではありません。どうして能動的に色塵に触れることができましょうか。例えば目の前に樹木や石、草、花があるとして、眼根はなぜ花だけを選んで触れ、眼識は花だけを了別し、他の物体は了別しないのでしょうか。眼根が色塵に触れる時間、眼識が花を了別する時間は、何によって決定されるのでしょうか。

これらすべては意根によって決定されます。意根は五陰身の主宰者であり、主体としての役割を担う存在です。もちろん意根は仮の主人に過ぎず、虎の威を借る狐のようなもので、背後に真の主人である第八識が控えていることに気づいていません。この仮の主人である意根は、数多くの内色塵に直面した際、花だけを選びます。なぜなら心が花を好み、他に差し迫った用事がなければ、ただ花を鑑賞したいと思うからです。もし重要な用事があれば、花どころではなくなります。

意根が花を見たいと思うとき、この花の色塵はすでに内眼根の領域に存在しています。意根が決定を下すと、眼識が生じます。こうして眼根・色塵・眼識の三つが和合して触れ合い、眼識は花の色塵を認識するのです。眼識が了別する時間の長さは意根が決定します。意根が十分に鑑賞し満足すると、もはや花を見ることを望まなくなり、眼識は花から消えて別の場所に生じます。この過程で種子が落ち、第八識に蓄えられることにより、来世における「有」が生じます。このとき意根の貪愛も意識の貪愛も、第八識によってありのままに記録され、種子となります。眼識にも微かな貪愛がありますが、それは意根と意識に従順であるがゆえに生じるもので、眼識自体には全く主体性がなく、完全に他律的な存在です。

私たちが世の苦から解脱しようと望むなら、自らの行為によって種子、特に貪・瞋・痴の種子を落とすことを避けねばなりません。ではどうすればよいのでしょうか。意根の心念を制御し、貪・瞋・痴の煩悩を起こさず、六識に不善なる身口意の行いを造作させないことです。あるいはそうした行いをできる限り少なくし、行いをなす際にも貪・瞋・痴の煩悩を起こさず、清浄な業種のみを残すように心がけるのです。

業行を少なくするのは誰が決定するのでしょうか。意根が決定します。業行の源は意根にあり、意根の無明が縁となって行いが生じるのです。意根が様々な原因・心の働き・無明によって造作を欲するからこそ業行が現れ、業種が残り、来世の苦が生じます。こうして生死の苦の源が明らかになれば、今後この世をどう生きるべきかは自ずと明らかとなるでしょう。触れる機会を減らし、触れる時間を短縮すること。どうしても触れねばならない場合には、触れる際に心の働きを減らすか滅除し、心を可能な限り空(くう)の状態に保ち、煩悩の種子を落とさないようにします。このように自らを徐々に訓練していけば、解脱への道が開けるでしょう。


——生如法師の開示
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十二因縁法による意根無記性にあらずの証明

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意根が黙して一切法を包容することは、意根に善悪性が存在することを説明する

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