衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年03月23日    日曜日     第1開示 合計4348開示

十二因縁法による意根無記性にあらずの証明

十二因縁:無明を縁として行が生じ、行を縁として識が生じ、識を縁として名色が生じ……。第一支は無明であり、天地創造の原動力である。この力によって天地万物が萌芽し、五蘊の生命体が活動する。これが五蘊身の生死輪廻の由来であり、主導する識である意根の無明である。第二支は行であり、意根は無明によって心行を生じ、造作を欲する。天地未生以前の萌芽の動きと同様に、無明の心行が一たび動けば、後の造作は必然的に続く。この心行は善・悪・無記の三性を具えており、善行でさえ無明性を含む。無明がなければ、世間の善すら行われず、心は清浄で造作がない。第三支は六識であり、意根の心行が動いて身口意行を造作する決断を下すため、六識が生まれ、意根に協力して身口意行を造作する。第四支は、六識が身口意行を造作した後に残る業種であり、この業種によって来世の名色の出生が決定される。

衆生の身口意行は善・悪・無記の三性が縁に随って発現し造作するため、業種は縁に随い時に随って阿頼耶識に蓄積され、生死輪廻は止まることなく流転する。三性の身口意行は意根の心行に由来し、意根の心行によって決定される。ならば、意根の心行が無記性のみで善悪の心行がないなどということがありえようか。もしそうであれば、十二因縁の生死の連鎖は継続する根拠を失い、生死は必ず断絶し、輪廻は必ず止む。意根の心行は六識の身口意行の原動力であり、六識の善悪は必ず意根の善悪の心行に由来する。それは意根の善悪の心行によって主導され決定され、意根の善悪の心行から離れることはない。そして意根の善・悪・無記の心行はすべて意根の無明によるものであり、善も無明、悪も無明、無記も依然として無明である。無明がなければ、生死の業行と業種は必ず滅び、生死輪廻は永久に止む。

意根が善でなければ、六識は布施や持戒などの多くの善行を造作する根拠を失い、衆生は天に昇って福楽を享受する機会を得られない。意根が悪でなければ、六識は殺人や放火などの種々の悪行を造作する根拠を失い、衆生は三悪道に堕ちて悪報を受けることもない。これを意識の善悪の心行が決定すると言う者もあろうが、意識の善悪の心行にいったいどれほどの力があり、主導権を握って意根の作主権を行使し、客分が主を凌ぐことなどできようか。ましてや、意根に心行がなければ、意識すら生じる根拠がない。意識の出生はすべて意根の決断に依存しており、意根が決断しなければ意識は生じる機会すらない。どうして善悪の身口意行を造作し、十二因縁の発生順序を転倒できようか。もし転倒できるなら、それは仏陀が誤った法を説いたことにならないか。意根に善の心行が生じた時、必ず善業を造作しようと欲し、六識は意根の決断に従って生まれ善業を造作し、意根の願いを成就する。六識は意根に従属し意根に奉仕するものであり、独立した行為や造作はできない。六識が悪業を造作するのも同じ原理である。よって、意根は単に無記性ではなく善悪性も具えており、そうあるからこそ六道輪廻が存在し、仏陀はこれに基づいて十二因縁法を説くことができたのである。


——生如法師の開示
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楞厳経に説かれる世界の由来による意根は無記性ではないことの証明

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意根の決定的役割

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