十二因縁:無明より行が縁起し、行より識が縁起し、識より名色が縁起す……。第一支は無明なり、これは天地開闢の動力源にして、この動力によりて天地万物萌生し、五陰の生命体運行す。これ五陰身の生死輪廻の由縁、作主識たる意根の無明なり。第二支は行なり、意根は無明によりて心行を生じ、造作を欲し、天地未生以前の萌動と同様に、無明の心行ひとたび動けば、後の造作必ず続いて現る。この心行は善・悪・無記の三性を具足し、善行といえども無明性を含む。若し無明なければ、世間の善も行われず、心地清浄にして造作なし。第三支は六識なり、意根の心行萌動により、身口意行を造作せんと決択すれば、六識出生し意根に随順して身口意行を造作す。第四支は六識が身口意行を造作した後に残す業種なり、この業種により後世の名色の出生が定まる。
衆生の身口意行は善悪無記三性、縁に随って萌発造作し、業種は縁に随い時に随って阿頼耶識に収蔵され、生死輪廻は止むことなく流転す。三性の身口意行は意根の心行より来たり、意根の心行によりて定まる。されば意根の心行、豈に無記性のみ有りて善悪の心行無かるべきや。若し然らば、十二因縁の生死の連鎖、由縁なくして永続せず、生死必ず断じ、輪廻必ず止むべし。意根の心行は六識の身口意行の動力なり、六識の善悪は必ず意根の善悪の心行より来たり、意根の善悪の心行に由りて作主決定され、意根の善悪の心行を離るることを得ず。而して意根の善悪無記の心行は、全て意根の無明によるものなり。善も無明、悪も無明、無記なお無明なり。若し無明なければ、生死の業行と業種必ず滅し、生死輪廻永く止む。
意根若し善ならざれば、六識布施持戒等の諸善行を造作する由縁なく、衆生天に昇り福楽を享くる由縁無し。意根若し悪ならざれば、六識殺人放火等の諸悪行を造作する由縁なく、衆生三悪道に堕ちて悪報を受くる由縁無し。或人はこれを意識の善悪の心行が決定すると言わん。然れど意識の善悪の心行、何ぞかくの如き大いなる力ありて、意根の作主権を行使し、主客を転倒せんや。況んや意根若し心行無ければ、意識すら出生する由縁無し。意識の出生は全て意根の決択に懸かる。意根若し決択せざれば、意識出生の機会無く、如何にして善悪の身口意行を造作し、十二因縁の発起順序を転倒せんや。若し転倒するを得ば、豈に仏陀の説法誤りならざらんや。意根に善の心行現るる時は、必ず善業を造作せんと欲し、六識は意根の決択に順じて出生し善業を造作し、意根の心願を完成す。六識は意根に従属し意根に奉仕するもの、独立の行為造作有るべからず。六識が悪業を造作するもこの理同じ。故に意根は単に無記性のみならず、善悪性も具足すと説く。これにより六道輪廻有り、仏陀はこれに基づき十二因縁法を宣説したまえり。
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