楞厳経において世尊は世界の起因について説かれている。無始劫以前、混沌が未だ開けていなかった時代には、第八識と意根のみが存在し、三界の世間はなく、ましてや五陰身や六識は存在しなかった。意根と第八識が合わさって衆生の生命体を成していた。当時、意根は無明によって心が外に向かって攀縁し、何かを探求しようとしたため、第八識は意根の心の想いに従って次第に世界を形成したのである。この過程は非常に長大である。なぜなら世界は一人の衆生の意根が想い成したものではなく、無数の衆生の意根の心の想いによって成ったからである。
世界が形成されてから数多の大劫を経て、衆生の五陰身は生存に適した環境が整ったため初めて出生した。世界形成以前から全ての無明は存在しており、後天的に生じた無明は一つもない。したがって、全ての無明は意根の無明であると言われる。意根が一切の無明を有している以上、この無明によって一切の煩悩の要因が潜んでおり、縁に遇えば煩悩が生じる。意根の無明煩悩がさらに意識を熏染し、意識も次第に煩悩を熏されていく。これもまた長大な過程である。すると最初の煩悩は全て意根のものであり、意識はただ意根の煩悩に随順していたに過ぎない。意識が熏習によって完成されるに至って初めて煩悩が現れたのである。
無明とは不明であること、即ち意根の心が理を明らかにせず朦朧としている状態を指す。この理とは何を指すのか。楞厳経が示すところによれば、それは法界の実相である。意根は法界実相たる第八識の理を明らかにせず、自分が第八識中の法であり、第八識によって生み出され執持される存在であることを理解しない。第八識の外に法も法界も存在しない。これが意根の無始無明であり、根本無明でもある。この無始無明によって、心を第八識の外に向けて探求させ、世界の形成を引き起こした。これは長劫の中で次第に形成されたものであり、短劫の内に成し遂げられるものではない。
世界が形成されて数多の大劫を経た後、衆生の五陰身が出現し、意識と五識も五陰身の出生に伴って生じた。五陰身が出現して以降、初めて六識の身口意行が意根に配合して造作を行うようになった。したがって意根は無明によって貪瞋痴の煩悩を有し、六識を指図して煩悩悪業を造作させ、悪業の種子がこれによって残され、六道の生死輪廻という因縁果報が生じた。これが十二因縁法の由来である。ここから分かるように、意識の出現は非常に遅く、意根よりはるかに後である。意識が出現した途端に無明煩悩を有するはずがなく、理由もなく生じるものではない。後に意識に煩悩が現れる理由は、意識を主導する作主識たる意根が熏染した結果である。あるいは意識が表現する無明煩悩は全て意根のものであり、意根が操作した結果である。したがって意根は確かに煩悩を有しており、単なる無記性ではなく、善・悪・無記の三性を全て備えている。
無明は悪法であり、善法でもなく不善不悪の中性法でもない。これによって仏法を学び修行して一切の無明煩悩を断じ尽くし、常楽我浄の円満光明仏となる必要がある。無明を善法や無記法と見做す者は決していないであろう。衆生の貪瞋痴の煩悩は無明から来る、即ち意根から来る。意根に無明がなければ、貪瞋痴の煩悩業を造作することはない。無明が貪瞋痴の煩悩を現前させたのであり、これによって意根は無記性ではない。では成仏後の意根は無記性なのか。成仏後の意根はなおさら無記性ではない。それは純粋な善であり悪性がなく、大慈大悲の性質であり、一切の衆生を慈しみ憐れむ性質である。ここから見れば、意根の性質を判断するのは容易であるはずであり、再び誤解してはならない。
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