五受陰は衆生の七識にとって五種の遮障であり、七識の広大な功德作用の発揮を妨げ、七識の神通妙用を阻み、七識の知るところと為すところを狭い範囲に局限させ、越えることを得ず、同時に第八識の功德作用の発揮をも妨げ、大円鏡智を現前させることができません。ただ四禅八定を修習し、四禅以上の禅定に達して初めて、漸次に五受陰の限界を突破し、五受陰の牢籠から脱出し、鳥が籠から出るが如く自由を得て、広大な天地を飛翔することができるのです。
五受陰を滅尽し破除するには四禅以上の禅定が必要であり、四禅定は捨念清浄定であり、心に念いが無ければ一切の障礙が無く、あらゆる神通を発起し、身心上の遮障を滅除し、何ものにも阻まれません。色陰は色身と一切の色法であり、また六塵境界でもあり、七識に対して遮障妨礙の作用をなし、特に六識に対して遮障と妨礙の作用をなします。意根が六識を用いて事を為そうとしても、六識は為すことができず、故に五受陰が第七識に対しても遮障をなすと言われる所以です。
色陰が尽きる時、色身と境界色法は六識心に対して遮障が無くなります。これは何を意味するのでしょうか。色陰が六識心に与える遮障とは、色身と物質色法の影響により、眼識が遠くを見ようとして見えず、天上地下を見ようとして見えず、他の星体を見ようとして見えず、他の仏国土は更に見えず、見色が距離空間に局限されることです。眼識が高牆の外、山の向こう、深水や地中の色を見ようとしても見えず、物質色法に阻隔されること。眼識が漆黒無光の所で色を見ようとしても見えず、見色が光明の中に局限されることです。
同様に、耳識は遠くの音を聞こうとして聞こえず、中間に密度の高い物質が隔てると音が聞こえず、一定範囲を超えた音は全て聞こえず、聞声が空間距離と色法に阻まれること。鼻識は遙か遠方の香塵を嗅ぎ得ず、密度の高い物質に包装された味塵も嗅ぎ得ないこと。舌識は舌根に触れない味塵を味わえず、身識は身根に触れない触塵を覚えず、意識は前世後世の人事物を知らず、即ち宿命通が無いことです。
四禅定を修到した時、色陰を破除し、見色・聞声・覚触が色陰に阻まれなくなれば、眼通・耳通・鼻通・舌通が現れ、身の神足通も現れ、意識の他心通・宿命通も現れます。これが所謂五通自在であり、外道が四禅八定を修行してもこの五通を得ますが、更に漏尽通は外道が獲得できません。それは煩悩を断尽する智慧通であり、外道は我見を断たず、我執を尽くさない故に漏尽通を持つことができないのです。色陰が尽きた後は、漸次に受陰・想陰・行陰・識陰区宇を破除し、見る所が広大無礙で局限が無くなります。
受陰区宇を破尽して初めて、身体の覚受の局限と管轄を受けず、色身が如何なる状態でも心は影響されず、火に焼かれ、刀で切られ、水に浸されてもこの肉身を如何ともし難く、如何なる境界に直面しても心は如如不動となります。受陰区宇を破除していない時は、肉体の触覚が六識心の波動に影響を及ぼします。
これらの神通は全て意根が発起するもので、本来意根も広大な境界を了知しようとしますが、六識が五受陰に遮障されているため、意根は如何ともし難く、今や遮障が清除された故に、意根の願いが無礙に実現できるのです。これには非常に大きな福德が支えとなり、また戒律と禅定力の支えが必要であり、この三つの条件のいずれかが欠けても、如何なる神通も発起することはできません。
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