衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年03月18日    火曜日     第1 回の開示 合計4345回の開示

意根の働きは脳内にあるのか、それとも脳外の虚空にあるのか

意根がもし脳の外にあるならば、自己とは無関係となります。意根が虚空の中に存在し得るなら、それは誰の意根でしょうか。思量の結果を誰が実行するのでしょうか。どのように根塵が接触して六識を生じ、意根の思量に反饋するのでしょうか。故に意根は脳外の虚空に存在し得ないと申し上げます。脳の外とはどのような場所でしょうか。必ずしも虚空とは限りません。楞厳経に曰く「虚空は汝が心内に生じ、一片の雲が太清に点じるが如し」と。この心はもちろん如来蔵を指しますが、意根もまた如来蔵に随って虚空を了別する必要があるのでしょうか。では虚空は意根の内側か外側か。あるいは意根は虚空の内側か外側か。意根は一切の法を黙容し了別し、色身の内に拘束されることなく、十方三世の法を如来蔵と共に了別します。ここから、我々の心の究竟の大きさが分かります。太虚を包むほどです。

意根もまた識心であり、識心は色身の内外中間に在らずして運転します。識心は形相無きが故に、色身の内や外にあるとは言えません。この意根という識心は色身内外の一切の法を統摂し、如来蔵と共に運転します。如来蔵の在る所には必ず意根が随従し、如来蔵単独では何らの法も運作できず、本質境を除きます。意根の不在する所には生命現象が無く、脳内に意根が無ければ、脳のみならず色身全体が運作を停止し、生命は存在し得ません。五陰身が接触し得る法は全て如来蔵の運作によるもので、常に意根が随伴し、意根は如来蔵に依って了別します。五陰身が接触し得ぬ法も同様に如来蔵の運作によるもので、意根が随伴し、これらの法も意根は了別し得ます。

例えば念仏三昧を得て真に極楽往生を願う者がいれば、極楽の蓮池にその者の蓮華が現れます。この蓮華は単に如来蔵の化現によるだけでなく、如来蔵が往生を発願する意根に随って蓮池に建立したものです。では意根は脳内か脳外で運作するのでしょうか。この場合、意根は脳と色身を離れず、同時に極楽世界に存在します。もし意根が脳内のみで運作するとすれば、極楽の蓮華は誰に属するのでしょうか。諸大菩薩の意生身は全て一つの意根によって統摂され、各分身の意根は色身の内か外か。

更に例えれば、眼識が眼前の十人を見る時、眼識はどの人物の色相に触れるのでしょうか。十人同時に見えるなら、十人の色相に眼識は同時に触れており、一人のみに触れ他に触れぬとは言えません。意根も同様に、如来蔵に依って如来蔵の執持する一切の法に同時に触れ、内外中間を分ちません。勝義根の内外に同じ法があり、脳の内外に同じ法があり、意根は全てを縁とし、思量できます。しかし実際には、勝義根を持つ衆生は何処へ行こうとも勝義根を出ず、天辺に至ろうとも勝義根を離れられません。意根の恒審思量は一切の法に及び、勝義根内の法のみならず勝義根外の法も思量します。それは身を執するのみならず法も執し、この執着が最も難題で、三界世俗の執念から我々は未だ離脱できず、全ての思惟が制限され、見識が狭い故です。


——生如法師の開示
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