衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年03月22日    土曜日     第1 回の開示 合計4347回の開示

楞厳経に説かれる世界の由来による意根は無記性ではないことの証明

楞厳経において世尊は世界の起因について説かれました。無始劫以前、混沌未だ開けざりし時、第八識と意根のみが存在し、三界世間はなく、ましてや五陰身や六識も存在しませんでした。意根と第八識が合わさることが衆生の生命体となります。当時、意根は無明より心を外に向けて攀縁し、何かを探求せんとする思い起こし、第八識はこれに随って次第に世界を形成しました。この過程は極めて長遠で、世界は一人の衆生の意根の想いによって成るのではなく、無量の衆生の意根の想いによって形成されたためです。

世界が形成されて数多の大劫を経た後、衆生の五陰身は生存に適した環境が整ったことにより初めて出生しました。世界形成以前より全ての無明は存在しており、後天に生成された無明は一つもありません。よって全ての無明は意根の無明であると説かれます。意根が一切の無明を具えるが故に、この無明は一切の煩悩の因を蔵し、縁に遇えば煩悩を生じます。意根の無明煩悩がさらに意識を薫染し、意識も次第に煩悩を薫発するに至ります。これもまた長遠なる過程です。最初の煩悩は全て意根に属し、意識はただ意根の煩悩に随順するのみでした。意識が薫成されるに至って初めて煩悩が顕現したのです。

無明とは不明を指します。意根の心が理を明らかにせず、朦朧としております。ここで言う理とは何か。楞厳経が示すところによれば、法界の実相、即ち第八識の理を指します。意根は法界実相たる第八識の理を明らかにせず、自らが第八識中の法であり、第八識によって生じられ執持される存在であることを悟らず、第八識の外に法も法界も無いことを知りません。これが意根の無始無明、即ち根本無明です。この無始無明より第八識の外を探求する心を起こし、世界形成を招来しました。これは長劫をかけて漸次形成されたもので、短劫内に成就するものではありません。

世界形成後数多の大劫を経て、衆生の五陰身が出現し、意識と五識も五陰身と共に出生しました。五陰身出現後、初めて六識の身口意行が意根の造作に配合しました。故に意根は無明により貪瞋痴の煩悩を生じ、六識を指使して煩悩悪業を造作させ、悪業の種子を残すに至ります。これにより六道生死輪廻の因縁果報が生じ、これが十二因縁法の由来です。ここに見るように、意識の出現は極めて遅く、意根より遥かに後発です。意識が出現した途端に無明煩悩を具えることはなく、理由無く生じるものではありません。後に意識に現れる煩悩は、意識を主導する作主識たる意根の薫染によるか、或いは意識が表現する無明煩悩は全て意根に属し、意根が操作した結果です。故に意根は確かに煩悩を具え、単なる無記性ではなく、善・悪・無記の三性を具えます。

無明は悪法であり、善法でも不善不悪の中性法でもありません。これにより仏法を学び修行して一切の無明煩悩を断尽し、常楽我浄の円満光明仏となる必要があります。無明を善法や無記法と見做す者はいないでしょう。衆生の貪瞋痴煩悩は無明より来り、即ち意根より発します。意根に無明が無ければ、貪瞋痴煩悩業を造作することはありません。無明が貪瞋痴煩悩を現前させます。よって意根は無記性ではありません。成仏後の意根は無記性どころか、純粋な善性で悪性無く、大慈大悲性を具え、一切衆生を慈しむ性質です。ここから意根の性質を容易に判断すべきで、誤解してはなりません。


——生如法師の開示
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