すべての法は何も得られない。『般若心経』には「無所得の故に、菩提薩埵」とあり、『金剛経』には「世尊は心に無所得の故に燃燈古仏より授記を受けた」とある。ある人々はこう考える:すべての法が無所得であり、我も我所もないのなら、一切の努力を放棄し、思考さえ止めて、ただ無為に過ごせばよいと。そう考えた時、心は非常に軽くなるが、この状態は長く続かず、すぐにまた有為に戻ってしまう。縁や事や人に出会うと、まったく無為ではいられなくなる。
諸法の空相を証得していない段階では、意識が空と認識するものには何の力もなく、全く主体性が持てない。あるべき姿はそのまま存在し、微塵も空じることはない。意識は動かず作為を起こさないように望むが、五蘊の身を主宰できず、主体である意根(末那識)には追求するものがあり、何かを為そうとする。意識はそれに従順せざるを得ず、どうしようもない。したがって、意識はある程度理を理解していても、意根が理解しなければ、いかなる実質的な問題も解決できない。ゆえに意識が証果明心しても根本的な変化は起こらず、煩悩は相変わらず煩悩であり、無明は相変わらず無明であり、生死は相変わらず生死である。主体である意根を解決してこそ、一切の問題が解決され、天地が覆るほどの変化が起こるのである。
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