衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年03月08日    土曜日     第1開示 合計4339開示

意識と意根は分離可能か

意根は六識の染浄の依り所であり、意根が染まれば六識は必ず染まり、意根が浄まれば六識は必ず浄まります。では、意根が我見を断たない場合、意識は我見を断つことができるでしょうか。意根が煩悩の結びつきを断たず、三結を断たない場合、意識は三結を断除できるでしょうか。意根が三結を断除していないため、命終の際には業障に引かれて地獄に赴き果報を受けますが、この時、意識はどこに向かうのでしょうか。

意根が凡夫の無明の位にある場合、意識だけが単独で初果の賢者となることができるでしょうか。この人は凡夫と見なされるべきか、それとも証果の賢者と見なされるべきでしょうか。あるいは二つに分裂してしまうのでしょうか。もし誰かが自分を傷つけた場合、意根が非常に強く我執に固執し、どうしても復讐を実行しようとするとき、意識はこの事態にどう対応すべきでしょうか。意識が覚醒して正しい理を理解し、すでに薫習を受けているときは、意根に道理を説いて反薫し、それによって意根を抑制・降伏させ、復讐や悪業の造作を止めさせることができます。しかし、臨命終時や中有の身においては、意識の力が弱いため、意根を導いたり説得したりすることはできません。

夢の中で意識は意根を導き諫めることができるでしょうか。もし夢の中ですら自分を把握できないならば、臨命終時にはなおさら自分を把握できません。「把握する」とは何を指すのでしょうか。それは意識が道理を明らかにして意根を調伏し、意根を正し、意根の方向性を適切に掌握することです。明らかに、臨命終時や中有の身においては、意識が意根を把握することは不可能です。この時、意根は業力に引かれるか、あるいは願力に引かれるのであって、意識に引かれることはありません。では、修行が意識の段階に留まり、一歩も前進しようとしないのは、非常に危険で頼りにならないことではないでしょうか。


——生如法師の開示
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意識は想うに帰し、意根は為すに帰す

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脳が意識機能の強弱を決定する

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