衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年02月20日    木曜日     第1 回の開示 合計4331回の開示

愚かさも阿羅漢果を証し得る 賢さも三悪道を免れず

周利槃陀迦の意識は非常に愚鈍で、一句の仏法理論も記憶保持できず、その思考力はさらに弱く、推理・整理・帰納・概括・分析・比較もできなかった。ただ鼻息を観じただけで、なぜ四果阿羅漢を証得できたのか?古今東西の文学者や文人は三蔵を極め、多くの著述を残し、詩集や偈頌は珠玉の言葉を連ねたが、なぜ証果の影さえ見られないのか?仏法は説くことにも解することにもなく、文辞の優美さにもない。実受用こそが仏道である。例えば林檎を口に入れ、胃に収め、腹を満たすことが最大の福利であり、林檎を研究し論文を書いて受賞するより余程実益がある。

周利槃陀迦のように愚鈍で理論を理解できない者が、鼻息を観じる際に意識の種々の功徳が基本的に役立たず、観行時に小細工もできず、鼻息などの諸行の刹那的生滅や苦空無常無我を分析できず、諸行無我や五蘊無我を推論できなかったことが、かえって意識的情思意解を省き、意根の機能作用を充分に発揮させることとなった。結果的に彼は我見を断つだけでなく、直接四果阿羅漢を証得した。ここに仏法の最終的な修証は意識での努力に非ず、理論が分からなくとも、用功の方法と方向が正しく精勤修行できれば、等しく悟道できることが明らかである。

一方、三蔵を極め五車に富む理論家・研究者たちは意識でのみ努力し、雄弁華麗に言葉を飾り人々の称賛を集め名声を轟かせながら、結局何も得られなかった。得たように見える所こそ失った所である。例えば蘇東坡がどれほど仏法を理解し感悟を得ようとも、修証においては全く無価値であった。文人の習気は深刻な障道因縁であり克服困難で、琴棋書画など世間の技芸は全て障道因縁である。世人はこれを栄誉とするが、実は倒錯している。理論を愛好し有所得を好む学人たちは、そろそろ反省すべきではなかろうか?

——生如法師の開示
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識の虚妄性

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