衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年02月18日    火曜日     第1開示 合計4330開示

確信することは真の不疑と言えるのでしょうか?

科学者が機器を用いて地球は楕円形であると測定したと言われ、ほとんどすべての人がそれを信じています。しかも確信に満ちた信じ方で、そのような確信はすでに深く根を下ろし、変更不能なものとなっているようです。信じない人もいれば、人と議論したり、嘲笑したりすることもありますが、それも真の確信ではありません。信じることには多くの段階があり、中には確固たる信念を持ち、全く疑いを持たない人もいます。しかし、自ら実証していない場合、これらの信はすべて盲信や迷信に属し、実証に基づく信ではないため、疑いは依然として存在します。ただ非常に深く隠れており、容易には観察できません。

地球が楕円形であると知っているのは、単に聞いただけであり、自ら目撃したわけではありません。それは意識による伝聞の知識であり、末那識(意根)が自ら見ていないため、疑惑は断ち切れません。多くの人が自ら目撃したことでさえ、真実であるとは限らず、見間違いは非常に多く、目で見たからといって真実とは限らないため、末那識の疑惑は断ち切れません。一旦他の因縁が現れて、地球は実は楕円形ではなく菱形や三角形であると言われれば、多くの人は以前の信を揺るがされ、信じなくなります。

なぜ信心が変わるのでしょうか。それは実証がないためです。意識の確信は、どの程度信じていても信頼できず、因縁が変われば意識の疑いが現れます。なぜなら、末那識はもともと信じておらず、疑惑を断ち切っていないからです。因縁が変わると、末那識の実証による支えがないため、意識は変わりやすく、主体性を失います。あるいは、意識の主体は常に末那識であり、重要な局面では必ず末那識に従って動きます。地球を実際に見て、全体と巨視的にその形状を確かに証見して初めて、末那識は疑惑を断ち切って信を生じます。未来に因縁が変わっても、末那識が依然として確信を持てば、意識は末那識に従って確信を持ち続け、たとえ意識に疑いがあっても作用せず、末那識を信じ続けます。

 自らが我見を断ったと確信し、疑わなくなれば、それは初果を証得したことだと言う人もいます。このような主張はなんと幼稚で笑止千万なことでしょう。凡夫の確信が信頼できるでしょうか。もし信頼できるなら、なぜ衆生はそんなに変わりやすく、少しの動きで変わって信じなくなるのでしょうか。もし凡夫の確信や不疑が信頼できるなら、なぜ仏は「汝の意を信ずることなかれ、汝の意は信ずべからず。阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずべし」と言われたのでしょうか。

歴史に記録された、我見を断って証果したことを人に証明した存在は、第一に仏在世の仏陀ご自身、第二に仏陀涅槃後の第四祖・般若鞠多です。仏陀は言うまでもなく、無量の智慧、無限の神通、あらゆることを知り、他心通・宿命通を持ち、衆生の心の内をありのままに知見されました。弟子たちが証果したかどうか、仏陀は会わずとも直ちに知ることができました。第四祖・般若鞠多は阿羅漢果を証得しただけでなく、大いなる神通力を持ち、自ら波旬の種々の妨害を降伏させ、仏教を清浄に戻されました。

第四祖の解脱の証量と宿命通・他心通によれば、弟子たちが証果したかどうかも当然直ちに知ることができ、誤りはありませんでした。他の人々は証量がなく、智慧の証量が不足しており、神通力もないため、おそらく他人の心理状態をありのままに観察することはできず、したがって証果の有無を人に証明することはできません。智慧が非常に深く、生々世々で数えきれないほど証果し、経験豊富な人は、神通力がなくともありのままに証果の事実を人に証明できますが、それ以外の人には証明する能力も資格もありません。ましてや凡夫が自らを証明することは、経験がないため、誤った判断は避けられず、引き起こされる結果も想像を絶します。

 仏法の修行は世間法よりも一層着実かつ厳密であるべきであり、仏法を遊び事のように扱ってはなりません。仏法は簡単だと思いがちですが、実際には仏法ほど難しいものはありません。なぜなら、衆生は無始劫以来ずっと世間法に携わっており、仏法にはあまりにも疎く、あまりにも不慣れだからです。それに加えて重々の業障が障害となり、その大きさは往々にして私たちの想像を超えています。したがって、着実に仏法を学び修行することこそが私たちの本分であり、そうすることで業障や煩悩を増やすことなく、生死の深淵にさらに深く陥ることを避けられるのです。

——生如法師の開示
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「衆生の心中にて確認された法は必ずしも正しいのでしょうか」

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愚かなりとも阿羅漢果を証し、賢くとも三悪道を免れず

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