衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年02月16日    日曜日     第1開示 合計4329開示

「衆生の心中にて確認された法は必ずしも正しいのでしょうか」

いいえ、そうではありません。もしそうだとしたら、仏陀は衆生に「汝の意は信ずべからず、阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずべし」とは説かなかったでしょう。ここで言う阿羅漢果とは小乗の究極の果位である四果を指し、三果ではまだ不十分です。確認とは意根による確信と承認のことで、無間作意が形成され、骨髄にまで深く刻まれ、揺るぎないものとなり、その深さは計り知れません。例えば我見について、衆生の意根はこれを確信し、根深く固着して揺るがず、これを我執と呼びます。

自らの意を疑いなく強く信じ、自らを強く肯定することは、すなわち意根による確認です。しかし凡夫衆生の確認には大きな過失があり、生死にまつわる甚大な過患があります。例えば凡夫は皆、五蘊が我であると確認していますが、このような確認は邪見であって正見ではありません。凡夫衆生は無始劫以来、ずっと自らの見解が正しく誤りないと確認してきましたが、無始劫にわたり誤った倒錯した見解によって生死輪廻を繰り返し、あらゆる悪報と苦報を受けてきたのです。

「汝の意は信ずべからず」と、仏陀はこの言葉で凡夫衆生を戒めるだけでなく、初果・二果から三果の聖者をも戒めています。なぜなら四果に至る以前には五蘊世間の空についての認識が未だ不十分で不徹底であり、思想観念の中に我見が断ち切られておらず、なお我執が残っているからです。四果阿羅漢は我見を断じ尽くし、空を徹底的に体得し、我執・我慢が消除されたため、その空の思想観念は初めて純正となり、汝の意を信じてよいのです。このような空の思想は小乗の法の範囲内における徹底性と究極性を持ちますが、大乗の法と比べれば、依然として非常に不徹底で不十分なものです。

したがって凡夫が果位を証するか否かは、一般的に言って、その智慧は自己検証に足るものではありません。第一に修行の期間が短く経験が不足していること、第二に見聞が狭く比較対照するものがないことから、誤判や誤審を招きやすく、加えて心中に我があるが故に愛着を断ち切れず、自らに偏り過大評価を与え、仮悟や妄語を生じさせ、ついには因果の報いを免れないのです。

——生如法師の開示
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確信することは真の不疑と言えるのでしょうか?

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