そうではございません。もしそうであるならば、仏は衆生に「汝の意は信ずべからず、阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずべし」と説かなかったでしょう。ここでいう阿羅漢果とは小乗の極果である第四果を指し、第三果ではまだ不十分であります。確認とは意根の確信と承認を意味し、無間作意を形成して骨髄に徹し、動揺せず、また深く知り難きものを指します。例えば我見を、衆生の意根はこれを確信し、根深く固着して動かし難く、これを我執と申します。
自らの意を盲信することは疑いなく、自らを過度に肯定することは意根の確信でありますが、凡夫衆生の確信には大きな過失があり、生死の大いなる禍いがございます。例えば凡夫は皆、五蘊を我と確信しておりますが、このような確信は邪見であり正見ではございません。凡夫衆生は無始劫より常に自らの見解が正しく誤りないと確信して参りましたが、無始劫もの間、誤った倒錯した見解によって生死輪廻を繰り返し、諸々の悪報と苦報を受けてきたのであります。
「汝の意は信ずべからず」という仏陀の教えは、凡夫衆生を戒めるためだけでなく、初果・二果から三果に至る修行者をも戒めるものであります。第四果に至る前には五蘊世間の空についての認識が未だ不十分で不究竟であり、思想観念の中に我見が断尽されておらず、なお我執が残存しているからであります。第四果阿羅漢において我見は断尽され、空は徹底し、我執・我慢は消除され、その空の思想観念は純正となり、初めて汝の意を信ずるに足るのであります。このような空の思想は小乗の法における徹底と究竟ではありますが、大乗の法と比べれば、依然として甚だ不徹底・不究竟であります。
よって凡夫が果を証するか否かは、一般的にその智慧では自己検証に足りません。第一に修行の時劫が短く経験不足、第二に見聞が狭く比較対照するものがないため、誤判・錯判を招きやすく、加えて心中に我を抱き愛着を断ち切れぬため、自己を偏頗し過大評価し、仮悟と妄語を生じ易く、ついには因果の報いを免れぬのであります。
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