排除法とは何か?例えば、自ら心中に目標を立て、自ら選んだ範囲内で目標と異なる対象を排除し、残ったものを自らの心中の目標として確立する。選んだ範囲が全面的かどうかは問わず、自己確認さえすれば、独りよがりで正しいと思い込む。明心して悟りを証する方法は非常に簡単である。
犬でさえ訓練すれば、排除法を用いて主人が指定したものを見つけられる。他の畜生も訓練すれば皆できるようになる。なぜなら、これはあまり頭を使う必要がなく、労力も要らず、善根や福徳も不要で、禅定も不要、戒律を保つことも不要、三十七道品を精進努力して修習する必要もない。無学の者でも人の暗示で明心して悟りを証することができる。例えば、主人が犬の前にABC三枚のカードを広げ、どれがCか指し示させるとする。犬はまずAだと指すが、主人は首を振り「違う」と言う。すると犬は次にBだと指すが、主人は再び首を振り「違う」と言う。最後に残ったカードは、考えずともCだと分かる。犬は当然Cだと指し示し、主人は「今回は正解だ」と言う。すると犬は喜び、自分はすごいと思い、さらに主人から褒美の骨一本をもらう。
排除法で第八識を探すのもこれと同じである。識は全部で八つあり、六塵を知る六識は明らかに第八識ではない。一気に六つを排除し、残るは意根と第八識の二つ。意根は普通の人には本当に観察できず、何たるものか分からない。たとえ「常に至る所で主導するものだ」と教えられても、やはり意根は見つからない。意根を見つけるのは非常に難しく、意根の了別性を観察するのはなおさら論外である。そこで意根は探さないことにして排除し、単独で第八識を探す。
第八識とはどのようなものか?多くの人が第八識は六塵を了別しないと知っている。そこで探し回り、ついに六塵を了別しないらしいものを見つける。このものが了別性を持っているらしいと想像し、了別しているのはどうやら六塵ではないようだ。結局何を了別しているのかは、実は観察できない。なぜなら悟った後に別相智や道種智を持つ者でなければ第八識の了別性を観察できず、第八識が結局何を了別できるかを知るからである。凡夫は根本的に第八識の了別性を観察する方法がない。理論に基づいて推測し想像する以外は。最後に、第八識はどうやら根身と器界を了別しているらしいと考える。経論に皆そう書いてあるから、これに違いない、間違いない。そこで急いで喜び勇んで確認し、どうやら疑いが晴れたように感じ、三結を断ち切る。
このような知能が生まれつきでなければ、後天的に脳みそに水が入っていたのであろう。脳が少し発達した子供にも及ばない。どうして一心に菩薩道を修証しようとする菩薩でありえようか?単純極まりない。もし過去の祖師様に会えば、祖師方の直心をもって、一言も話さず直接棍棒で頭を割ってしまうだろう。よくも宗門を害そうとは?幼稚園レベルの知能では教育のしようがない。私が宗門の興衰を考慮しなければ、こんな者には見向きもしない。しかし宗門の明心は仏法修行の最も重要な点であり、衆生の生死の命門であり、今生と未来世の無数の衆生の帰依と解脱の場である。もし誰かがこの門を破壊してしまえば、衆生は再び鯉が竜門を跳ねることもできなくなる。
知解宗徒でさえ、この排除法よりはるかに尊い。排除法は大した知解も要らず、大した知能も要らない。豆を選別するように、悪い豆を選り分ければよい。残ったものは皆良い豆だ。なんと簡単なことか。何も四念処・七覚分・八正道・四正勤・四如意足・五根五力を修める必要はない。戒律を受け持つ必要もなく、禅定を修める必要もなく、どんな定力も不要だ。豆を選別する作業にそんな面倒は要らない。仏の説いた条件は全て余計なものだ。最上根器なら仏説を守る必要はない。
六祖の下にいた十三歳の神会小和尚は聡明で利発、善根が深く、求法の心が切実だった。山を越え谷を越え千里の道を歩いて六祖に会いに行き道を求めたが、六祖は彼をただ知解宗徒であると印可した。当時の禅風はそれほど盛んであり、悟りを開いた祖師や善知識はそれほど多かった。しかし神会和尚はなんと九十六歳まで生きながらえてもなお知解宗徒のままであり、著作した文章も少なくなく、生涯をかけて北宗神秀和尚の漸修一派と法を争い宗を競った。今時の人に神会和尚ほどの求法の精神と善根福徳がある者などいるだろうか?まさか排除法で第八識を見つけて神会和尚を超えようと夢想するとは。第八識はそんな風に見つけさせはしない。推測の方法なら推測できるかもしれないが、それは絵に描いた餅で、結局腹は満たされない。とにかく、皆さんに一つの事実をはっきり認識していただきたい:末法の世は何しろ末法の世である。決して何も妄想してはならない。事実に即して善を行い、妄想は悪である。
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