洞山和尚が川を渡った際、川面に映った影を見て突然悟り、偈を詠んだ:「渠(かれ)は今まさに我なり、我は今渠にあらず」。問う:渠とは誰を指すのか?我とは誰を指すのか?両者はどのような関係にあるのか?洞山和尚は川面の影を指さして言った:「お前は今の私だが、私はお前ではない」。影とは、第八識が映し出した五蘊であり、第八識から生じた第八識の影である。五蘊は唯識の究竟義から言えば第八識と言えるが、第八識は決して五蘊ではない。
これらの法は考えてみれば理解できることで、大したことではない。解悟と言ってもよいし、解悟でないと言ってもよい。証悟と言うならば、内から外へ、上から下までよく検査する必要がある。何を検査するのか?彼の心に変化があったかどうか、智慧が生じたかどうかを検査する。五蘊が単なる影であることを証得すれば、必ず大きな驚きを覚え、心に波瀾が起こり、これまで執着していたものが全て間違いだったと気づく。この時、心はどのような状態にあるのか?何度も証悟を経験したことのない者、心通のない者が、どうしてこの人物が証悟したのか解悟したのかを見分けられようか?普通の人には絶対に検査できず、ほぼ100%検査不能と言ってよく、ただ人の言いなりになるだけである。
証悟は大いなる智慧である。証悟したかどうかをありのままに検査できることは、さらに大いなる智慧であり、証悟の智慧よりもはるかに大きい。証悟は第八識の比較的単純で大まかな運行を眼前で観察できるが、これは解悟が及ぶところではない。解悟は心の中にぼんやりとした影があるだけで、はっきりと言い表せず、第八識が実際にどのように運作するのか、五蘊がどのように生じるのかが分からない。理論をたくさん述べているように見えても、正確で細かな点は一切なく、水に浮かんでいるようで水に入ることができず、水中の状況を知らないのと同じである。
自らが開悟し第八識如来蔵を証得した大菩薩だと主張する者がいる。しかし、この大菩薩は何年経っても第八識如来蔵の少しでも細かな運作状況を語ることはなく、全てが大まかで曖昧な概論ばかりである。それらの理論は経典や菩薩の論書を読めば大体推測できるもので、何ら珍しいものではない。禅宗の公案に至っては、祖師方が堂上で人々を接する際の身振り手振りを見れば大体察しがつき、見よう見まねで多くの人もできることで、何ら珍しくない。一指禅師の小さな弟子も指一本で身振り手振りをし、外見は師匠と同じだが、それは禅ではない。現代人の偽造能力は比類なく、世俗から仏教に至るまでそうであり、業が重く、煩悩が重く、自我が重いためである。
禅宗の祖師方の作略を真似て身振り手振りをする者たちは、解悟と言えるかもしれないし、解悟の端にも触れていないと言える。意識の作用を第八識の作用と見なすのは外道である。八識の共同作用を第八識の単独作用と見なすのは推測に過ぎず、素人には全く理解できず、往々にして呆然とさせられる。この手口は天下を欺くことができる。なぜなら衆生の見識があまりにも浅く、実に愚痴で騙されやすいからである。だから騙された時は、振り返って自分自身を検査すべきである。なぜ騙されたのか?他の人はなぜ明察で騙されないのか?街を歩いていて誤って人にぶつかった時、相手が目を見開いて言う:「私は証果の聖人だ。よくも私にぶつかることができたな?」それを聞いたら、ははと笑い「すみません」と言えばそれでよい。怪しむ必要もなく、何も言う必要はない。
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