真に見道した後は、心心無間の状態が道中に現れます。心心無間とはどういう意味でしょうか。どの心が無間の心であり、どの心が間断のある心でしょうか。なぜ間断が生じるのでしょう。第八識と意根は無間の心であり、前六識は間断のある心です。見道が無間であるためには、意根と意識が同時に見道しなければならず、意識単独では見道できません。真の見道では意識が断滅しても道果は残りますが、仮の見道では意識が滅したり弱まったりすると、道果は失われてしまいます。
真の見道とは意根の見道を指します。意根が見道すれば、心は永遠に道の中に安住し、再び退転することはありません。これに対し意識の見道は異なり、意識は間断のある心で主体性を持たないため、意根が未見道であれば意識は意根の指示に従い、いわゆる道を認めず道中に留まりません。もし意識が疑念を生じれば退転します。たとえ意識が退転しなくとも、意根が常に主導権を握っている限り、身口意の行為に変化は生じず、依然として元の状態を維持します。
ある人々は意識による見道、あるいは禅定の定境を道と見做し、不退転を保つために常に座禅で定を修し、悟った境界を保持しようとします。他方では意識を用いて意根を自己に順応させようとする者もいますが、これは結局永続せず、紙で火を包むように事態は最終的に露呈します。意根が見道すると、境界に対する意根と意識の執着は薄れ、意識は容易に転換されますが、意根が真理を認めれば十頭の牛でも引き戻せないほどの確固たるものとなります。
まさにこの意根の頑固な性質こそが、無始劫以来の邪知邪見を深く根付かせているのです。正法をもって意根を導くことは容易ではなく、意根は熏習を受け難いため、証果が極めて困難となります。煩悩の重い者に対し、軽い調子で道理を説いても全く効果がなく、大いなる悪報を受け、壁に激突し、血まみれになるまで自省しない者、これこそが根器の劣った人であり、十牛の力でも動かせない頑迷さを持ち、融通が利かず対立を好むのです。
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