衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2025年02月10日    月曜日     第1 回の開示 合計4326回の開示

無間見道とは何か

真に見道した後は、心が絶えることなく道の中にある。心心無間とはどういう意味か。どの心が無間の心か。どの心が断絶する心か。なぜ断絶しうるのか。第八識と意根は無間の心であり、前六識は断絶する心である。見道が無間であるためには、意根と意識が同時に見道せねばならず、意識単独では見道できない。真の見道では意識が断滅しても道果は残る。しかし仮の見道では、意識が一旦滅び弱まると道果は消える。

真の見道とは意根の見道である。意根が道を見れば、心は永遠に道に住し退転することはない。これに対し意識の見道は異なり、意識は断絶する主体性なき心である。意根が道を見なければ、意識は意根の指示に従い、いわゆる道を認めず道を離れる。もし意識が疑念を生じれば退転する。たとえ意識が退かなくとも、意根が常に主導する限り、身口意の行為は変わらず元のままである。

ある者は意識の見道あるいは禅定の境を道と見做し、退転を防ぐため常に座禅して定境を保ち、悟った境界を持続させようとする。またある者は意識で意根を引き連れ自己に随順させようとするが、これは結局長続きせず、紙で火を包むように事態は必ず露見する。意根が道を見た後は、境界の吸引力が弱まり意識は容易に転換される。しかし意根が理を認めれば真理に逆らえず、十頭の牛でも引き戻せない。

まさにこの意根の頑なさこそ、無始以来の邪知見が深く根付いている所以である。正法で意根を導くのは容易でなく、意根は熏習を受け難いため、証果が極めて困難となる。煩悩の重い者に軽く説法しても無駄で、大悪報を受け壁に激突し血まみれになって初めて反省する。これが鈍根の者である。十牛の力でも動かせず、自説に固執し融通きかず、意地を張り続ける。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

煩悩を断たずに菩提を証することはできるか

次の記事 次の記事

解悟と証悟をどのように見分けるか

ページのトップへ戻る