衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年02月08日    土曜日     第1 回の開示 合計4325回の開示

煩悩を断たずに菩提を証することはできるか

ある人が言うには、明心や初果を証得しても煩悩が断たれず、身心に何の変化もなく、転換がないのは正常だと。しかしこれは非常に異常なことである。これほどの生死の大事が、以前の重大な誤った知見を覆し、五蘊世間に対する認識が有から空へと転じたのに、どうして身心に何の変化もないと言えるのか。四正勤の如法な修行によって、どうして身心が変化しないことがあろうか。七覚支の理にかなった修行によって、どうして身心が変わらないことがあろうか。心が変わらないのに、どうして証果や明心と言えようか。世間法においてさえ、意根が真に何事かを知れば、異常なほど感動し、身体に大きな変化が現れ、心は激しく動揺し、あるいは熱涙にむせび、あるいは身心が震え、あるいは神妙な面持ちとなり、あるいは幾日も眠れなくなるなどする。

証果に至る前に三十七道品を修行する過程において、身心は少しずつ変化し、以前とは大きく異なるものとなる。もしその違いが明らかになり、欲界の五品の惑いを断じたなら、それは初果向である。もし身心に何の変化もないままであれば、それは如法な修行をしておらず、修行の方向が誤っているか、あるいは全く精進していないか、広学多聞と情思意解に留まっているか、世俗法に心を用いることが多く、法理が真に心に入っていないことを示している。

倶舎論には、真に道を修め理にかなって修行すれば、必ず煩悩の惑いを降伏させ、次いで断除するとある。修行の過程においてそうであり、修行の結果はさらにそうなる。それによって初果向となり、再び初果となる。少しの煩悩の惑いも断たず、身心に転換がなければ、依然として具縛の凡夫であり、煩悩の惑いに縛られ身動きが取れない。どうして菩提道に進み、身分を転換できようか。もし強引に身分を求めれば、名ばかりで実質が伴わず、名実相伴わず、世を欺き名を盗む者と呼ばれる。

多くの人は、法を説くことができればすでに実証したと考えがちだが、事実はそうではない。実証を経ずに説法すれば、真の指導的意義はなく、その道を自ら歩んでいなければ、他人に具体的な歩み方を指導できず、自らの心に貪瞋痴の煩悩が燃え盛り、至る所に滲漏があれば、他人の煩悩を降伏させ断除する指導などできない。

一指禅の公案がある。師が一人の尼僧を導く際、人差し指を立てた瞬間、即座に悟った。小沙弥がこれを見て思う:これが悟りか! そこで小沙弥は師の不在時、問法する人に同じく人差し指を立て、これがその真如だと伝えた。鸚鵡返しのまねごとは様になっていた。今人の悟りはこの小沙弥の悟りと変わらない。手真似をし祖師たちの作略によく似せ、機鋒のように見え、人を導くようにも見えるが、素人は騒ぎ、玄人は奥義を見る。これらの手法は外行人を欺くのみ。様々な機鋒は八識和合であり、真妄混在する。真妄を分かたず妄を真と見做せば、いかに手真似しても機鋒ではない。

阿難が仏涅槃後百年、一人の小沙弥が生滅法を「水老鶴」と誤って誦するのを聞き、正しく直した。しかし小沙弥が師にどちらが正しいか問うと、師は言った「阿難の言うなかれ、彼はもう老いぼれた。私の教える通り誦すべし」。そこで小沙弥は相変わらずの誦文を続けた。阿難はこれを聞き思う:仏が涅槃されてわずか百年で、仏法がこのように誤伝されるとは。未来世は仏からさらに遠ざかり、仏法はどう変容するか。衆生の愚かさよ。阿難は悲しみ、直ちに涅槃に入り去る決意をした。仏法が徐々に破壊される惨状を見たくないと。あの時代ですでに仏法は変質していた。まして数千年後の今日においてをや! 今の時代は決して聖人が街に満ちる時代ではない。多くの人が仏法の修証を甚だしく誤解している。

今や大小乗の法もさほど貴重ではなく、稀有の法ではない。法を聞き思惟するだけで果位が手に入り、戒定慧も要らず、六度万行も修する必要がない。戒を守り定を修する者は愚か者とされる。今やあらゆる果が容易に手に入る。例えば如夢観・如幻観・十回向位の果も難事ではない。如来蔵観行修証の法は口伝するだけで果が家に届き、衆生の愚痴と顛倒はもはや言葉もないほどである。


——生如法師の開示
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