衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年02月05日    水曜日     第1 回の開示 合計4324回の開示

意識の証果は依然として具縛凡夫なり

意識による証果は非常に手軽で、多大な代償を払う必要もなく、頭を使ったり禅に打ち込む労力も不要です。最も重要なのは禅定を修める必要がないことで、実に簡単です。禅定の関門は最も突破が難しく、特に苦行を要し、時間を費やし足を痛める修行に耐えねばならず、多くの世俗的な事柄を犠牲にします。意識による証果では戒律を厳守する必要もなく、三帰五戒も免除され、最も煩雑な三十七道品の修行も不要で、膨大な時間とエネルギーを節約できます。福德もさほど必要とせず、菩薩の六波羅蜜のうち前五波羅蜜も免除され、実に容易です。ただ意識で理論知識を学び、思考・理解・分析・推測・推理・統合・帰納を行うだけで、これらの作業に集中力を要さず、過度の精神的負担もなく、一般知能があれば対応できる秘書業務のようなものです。

このような証果法は非常に安易で、大した代償も必要とせず、理論知識が豊富にあるため人目を引き崇拝されます。妻子を捨てて出家修行する必要もなく、親族との縁を切る必要もなく、世俗の事業を廃することもありません。大衆からの供養を受けつつ菩薩法師となったり、勝義僧として出家僧を凌いだり、出家在家の利益を兼ね備え、世俗的利益を最大化できます。意識証果の利点がこれほど多いなら、誰が捨て去ることができましょうか。

しかしこの方法で証果しても、一片の煩悩も断ち切れず、煩悩具足の凡夫と何ら変わりがありません。ある者は「三果と四果のみが煩悩を断つもので、初果二果には煩悩があるのは当然」と弁解します。初果者と凡夫の煩悩が同質同量であることも「当然」と言います。もし初果者が煩悩具足の凡夫と同様なら、初果者は本質的に全ての煩悩を具足した凡夫であり、初果は名ばかりで実質なく、どうして我見を断った初果者と言えましょうか。このような仏法の在り方では、仏教が滅びないはずがありません。

世間には邪法と邪師が多いですが、それらの邪法は浅薄で仏教の根本を破壊できず、基盤を揺るがすことはできません。例えば某法師が説く如来蔵論は全くの妄説ですが、仏教の主流の発展に影響を与えられず、救済する衆生の根機が極めて浅く、苦心して導き出しても大した働きができず、仏教への脅威とはなりません。双修法などは外道法に過ぎず、程度が低劣で、多少の智慧ある者なら見分けがつき、深入りしません。これに陥る者は業障深く善根浅薄な者が多く、苦労して救い出しても大した存在になれず、仏教の柱となることは不可能です。仏教を滅ぼし得るのは外道や外道法ではなく、常に仏教内部からの崩壊です。所謂「獅子身中虫、自ら身中の肉を食う」です。

三世仏教の基盤と要諦は、証果と明心見性という極めて重要な段階にあります。この段階で重大な問題が生じなければ、仏教の将来の発展は安泰で問題ありません。故に我見を断ち明心見性する根本法は、誰もが伝授できるものではなく、決して軽率に扱ってはなりません。もし衆生の法身慧命を害するような乱脈な行いをすれば、たとえ五百世野狐になりたいと願っても叶わず、受ける悪果はこれより無数倍深刻です。乱伝法を支持することは悪を助長するに等しく、果報も極めて悪いです。故に因果を深く考え、仏法を厳粛に扱い、衆生と仏教に対し高度な責任感を持つようお願いします。

——生如法師の開示
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