衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年02月22日    土曜日     第1 回の開示 合計4332回の開示

識の虚妄性

問:悟りを開いた後はその内容を忘れてしまうと聞きましたが、忘れたなら悟った人とは言えないのでしょうか?どうして悟りを忘れることがあり得るのでしょうか?

答:意識が学習した理論的知識は忘れます。意識が理解し暗記した内容も忘れ、鸚鵡返しの言葉も忘れ、一度忘れると思い出せなくなります。しかし悟りとは自心の智慧が証得した境地であり、意根と意識が同時に開発した智慧であって、他から得たものではないため、記憶や忘却の問題とは全く関係ありません。

思い出しと忘却は意識の機能作用です。意識は依他起性であり、生滅変化するもので、縁が具わらない時には意識は衰弱し消滅します。例えば脳に病変があったり、刺激を受けたり、精神が傷ついたり、年老いて脳が萎縮したりすると、意識の機能は衰え正常に働かず、過去の人事物理を思い出せなくなります。これが忘却と呼ばれるものです。意識が消滅すれば以前の何事も思い出せず、眠りについた時、昏倒した時、死んだ後、転生した時などに意識が消えると、過去の経験は一時的あるいは永久的に消滅します。中有においては微弱な意識がありますが、機能は制限され、業力に操られ、自らの意志で行うことはできません。

もし単に意識が悟って幾つかの理を理解し、意根が悟っていないならば、全く保証がありません。意識が消えれば全ての内容をきれいさっぱり忘れ去ります。意識は因縁によって生じるもので、極めて速く変化します。何らかの影響を受ければすぐに変わり、態度を翻し、何事かを忘れれば思い出せず、一瞬のうちに心は空白になります。ですから苦労して禅の修行を経ず、参究もせずに、一足飛びに意識だけで大まかな結果を知ろうと妄想し、意根を熏習させなければ、その結果はあっという間に消え去り、ほとんど功徳も受用できません。

具体的な修道の段階を経ず、辛抱強く参禅もせず、意根が熏習を受けなければ、意識の推論・想像・推測・憶測に頼るだけとなり、現量は全くなく全て非量となります。憶測の内容は当然いつでも思い出せず、作用を起こさず、身口意の行を指導できず、無間断で連続する思想境地とは成り得ず、数分も続かず、滅するのは時間の問題です。

しかし苦労して参禅参究する過程で意根が参与し、真実の自性を悟れば、それが現量の智慧の境地となり、三昧が現れ、無間見道となります。身口意の行が清浄であれば、意識は忘れようとしても忘れられず、失おうとしても失えず、退転しようとしても退転できません。これは意根が主導権を握っているからです。意根が悟れば、意識は意根に随順し、意根の指揮支配を受けます。たとえ忘れても思い出さざるを得ません。実際、意識が考えようが考えるまいが関係なく、意識が滅しても問題ありません。意根が悟っていれば永遠に悟ったままです。眠っていようが、昏倒していようが、死んでいようが、中有の中にあっても悟ったままであり、悟者の身分で転生し、証悟の善果を得るのです。

仏道修行で意識だけを使うと大損します。生滅変化する無常の意識に依存して生死の大事を解決しようとするのは、修行ということを全く理解していない証です。自分で食事をして自分が満腹になるように、常に外縁に依存していては、縁は滅するものです。無量劫の後まで頼り続けることはできません。ですから智慧ある者は絶えず生滅変化する保証のない意識に賭けることはせず、世間出世間の何事においてもそうあるべきです。改めてまとめますと:意識が証する果は全て紙で作られた果実のようなもので、紙は最も早く腐り壊れるものです。

——生如法師の開示
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