問:悟りを開いた後はその内容を忘れてしまうと聞きましたが、そうすると悟りを忘れたら悟った者とは言えないのでしょうか?どうして悟りを忘れることなどあり得るのでしょうか?
答:意識が学習した理論的知識は忘れ去られ、意識が理解し暗記した内容も忘れ去られます。オウム返しのように覚えたものは忘れ、一度忘れると思い出せなくなります。しかし悟りとは自心の智慧が証得した境地であり、意根(マナス)と意識が同時に開発した智慧であって、他から得たものではありません。したがって、記憶や忘却の問題とは全く関わりがありません。
想起と忘却は意識の機能作用です。意識は他縁によって生じる性質(依他起性)を持ち、生滅変化します。縁が具わらない時には、意識は衰弱し消滅します。例えば脳に病変があったり、刺激を受けたり、精神が衝撃を受けたり、あるいは年齢を重ねて脳が萎縮したりすると、意識の機能は衰えて正常に働かなくなり、過去の多くの人・事・物を思い出せなくなります。これを忘却と呼びます。意識が消滅すれば、過去のいかなる人・事も想起できません。例えば眠りに落ちた時、昏睡状態、死後、転生後には意識が消滅し、過去に経験した人・事は一時的あるいは永久的に消え去ります。中有の身には微弱な意識が存在しますが、その機能は制限され、業の力に操られるため、自らの意志では何一つ為すことができません。
もし単に意識だけが若干の理を悟って明らかにし、意根が悟っていないならば、これは全く保証のない状態です。意識が一度消滅すれば、あらゆる内容が完全に失われてしまいます。なぜなら意識は因縁によって生じるもので、非常に速く変化するからです。何らかの影響を受けると、あっという間に変わり、翻意し、何事かを忘れて思い出せなくなり、一瞬の居眠りで心は空白状態になります。したがって、辛苦の参禅過程を経ず、参究も行わないのに、妄想で一足飛びに意識に大まかな結果を直接知らせようとし、意根を薫習させなければ、この結果はあっという間に消え去り、ほとんど何の功徳も受用できません。
具体的な修道段階を経ず、辛苦して参禅したこともなく、意根が薫習を受けなければ、意識の推理・想像・推測・憶測に頼るしかなく、現量(直接知覚)は全くなく、全てが非量(誤った知覚)です。憶測の内容は当然ながらいつでも思い出せず、作用せず、身口意の行いを指導できず、無間断の連続的な思想境地とはならず、数分間も継続できず、いつかは必ず滅びてしまいます。
一方、辛苦の参禅・参究の過程を通じて意根が参与し、真心自性を悟れば、それは現量の智慧境地となり、三昧が現れ、無間見道(途切れない悟りの境地)となります。身口意の行いが清浄であれば、意識は忘れようとしても忘れられず、失おうとしても失えず、退転しようとしても退転できません。なぜならこれは意根が主導する事柄であり、意根が悟れば意識は意根に随順し、意根の指揮支配を受けるからです。たとえ忘れても思い出さざるを得ません。実際、意識が考えようが考えるまいが問題ではなく、意識が滅んでも構いません。意根が悟っていれば、永遠に悟ったままです。眠ろうが、昏睡しようが、死のうが、中有の身にあろうが、悟ったままであり、悟った者の身分で転生し、証悟の善果を得るのです。
仏法修行で意識だけを用いると大きな損をします。生滅変化し無常なる意識に頼って生死の大事を解決しようとするのは、修行という事柄を全く理解していない証です。自分の食事は自分で満腹になるものであり、いつまでも外縁に依存すべきではありません。縁は滅するもので、無量劫の後まで頼ることはできません。ゆえに智慧ある者は、絶えず生滅変化する保証のない意識に賭けをすることはできません。世間・出世間のあらゆる事柄がこれと同じです。改めて申し上げます:意識が証得した果は、全て張り子の果実のようなものです。紙でできたものは最も腐敗しやすいのです。
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