今、多くの人々が大乗と小乗の修行において解悟に至り、今後の証悟を阻害することを懸念しています。そこで問題となるのは、いかにして解悟を避けるかです。
解悟とはどのような状態でしょうか。解悟とは、教義に非常に精通し、大乗・小乗の修行の考え方が極めて明確となり、ほぼその道理やあり様を理解したかのように、疑問が無くなった状態です。しかしこれはまだ法に対する勝解の段階に留まっており、証悟には程遠いものです。この段階で多くの人が悟りを開いたと自認し、容易に悟りを開いたと認証されがちです。勝解の後にはさらに念・定・慧があり、最後の真の慧、すなわち末那識の慧が開発されて初めて真の悟りとなります。これ以前にはまだ非常に困難で耐え難い道のりがあり、意志力・修行の力量・願力・信力・忍力・慈悲力によって乗り越え、暫定的な終点あるいは目標・目的地に到達しなければなりません。
意識が法に対して勝解を得た後も、末那識を染め続け、末那識も勝解に至らせねばなりません。末那識が勝解を得ても悟りとは見なされず、心と心の間断なき念力を形成し、念力が成熟して初めて定力が現れます。定力が具足して初めて智慧が開発され、大乗・小乗の見道の智慧が現れ、その道を識り、その道を証得し、その道を確認して、初めて大乗・小乗の菩提道から永遠に退転せず、見道の功徳を永遠に失うことはありません。さもなければ、縁に遇えば容易に菩提道から退転します。なぜなら、意識は理解しても末那識は明らかでないため、以前に意識が理解したことを否定するのが最も当然のことだからです。この退転も意識の退転であり、意識が認めないだけです。末那識は退転していません。なぜなら末那識は一度も入ったことがなく、道を見たことがないからです。どうして翻って認めないことがありえましょうか。どうして退転がありえましょうか。このいわゆる退転とは、見道以前の外門での騒ぎに過ぎません。一度門の中に入れば、真実の定慧等持の三昧境界によって静まり、心は空しく寂滅し、全く騒ぐことはありません。
勝解・念・定、この三つの段階はいずれも重要であり、前がなければ後はありません。その中で、教義が意識から末那識へ至ることは非常に重要な点です。末那識が一旦法を認めれば、疑情が生じ、心に念々と疑い続け、一定の時を経れば必ず禅定が現れます。その後は修定と参禅という二つの関門に関わってきます。法に対して一定の勝解を得た後、いかにして定力を高め、いかにして参究すべきでしょうか。例えば我見を断つ道理について、心におおよその理解があり、無我の思想もほぼ明らかになったとします。この段階はまだ証得には属しません。この先いかに修行すべきでしょうか。この時点で定力の無い人もいれば、多少の定力はあるがまだ不十分な人もいます。当然ながら、まず第一の課題は方法を考えて修定し、定力を高めることです。
定力が高まった後、末那識は定中において「我」に関する内包と外延を思量し、「我」に関する全ての教義を一つ一つ貫通させ、何が「我」であるかを明らかにします。思量が通達すれば我見を断つ可能性があります。しかしこれらの内容は多岐にわたり深遠であるため、一時に全てを思量し明らかにすることは不可能です。少しずつ浅い所から深い所へ、表面から内面へと進め、内包がますます深く透徹し、外延がますます広大になり、最後には「我」全体が心中に明々白々と現れます。
以上が定中における参究による証悟の方法です。この方法で努力すれば解悟を避けられます。参究においては、意識は学んだ教義の比較的細かな部分をできる限り忘れ、末那識に伝えないようにするか、あるいは比較的細かな教義を最終的な答えと見なさないようにすべきです。法に対して疑いを起こし、疑問を持つべきです。疑いは深ければ深いほど良く、なぜかと繰り返し問うべきです。意識が学び知っているのは「其の然る所以」を知らず「其の然るを知る」に過ぎません。参究を通じて末那識に「なぜか」を明らかにさせれば、智慧は絶えず増長し、来世に持ち越すことができます。
実は多くの法を学ぶ必要はありません。仏教を学ぶのは理論家や論者になるためではなく、また雑家や万巻の書を読んだ者になるためでもありません。真の参究においては、触類旁通し、教義が少しずつ拡散し融会貫通します。元々知らず会得せず理解しなかった法も、深く思索することによって一つ一つ貫通します。貫通した後の法は、自らが所有するものであり、学んで得たものではありません。今生も来世も忘れようとしても忘れられず、口を開けば即座に現れ、考える必要はありません。智慧が深い人々は皆、自ら法を証し、法を探究するのであって、他人の法を学ぶのではありません。学んでも自分のものではなく、死後には忘れ、来世でまた一から学ばねばなりません。多くの人が五車の書物を学んだかのように、教義を提起されれば滔々と語り、口から川が流れ出るかの如く、まるで弁才無碍のように見えます。しかし一つの教義も貫通しておらず、一つとして実証したものはありません。知識が豊富でも真に法を理解したことにはならず、真の智慧を表すものではありません。意識が消え去れば、何も残りません。
大乗・小乗の法は、多聞の段階において、おおよその輪郭をはっきりさせ、脈絡が明確であれば十分です。あちこちで学び聞く必要はありません。同様に似た法をどれだけ学んでも同じであり、智慧を増すことはできません。真の智慧は参究によって生み出されるものです。一点を参究すれば一点の智慧が生まれ、同時に触類旁通し、より多くの法を証得します。少しずつ繋ぎ合わせれば、数多くの法を理解し、しかも真に理解します。睡眠中にも修行できます。思想の脈絡が明確になれば、意識の注意喚起や導きは必要なくなり、意識が無い時でも末那識は独りで参究を続けられます。
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