意識による解脱は、いかなる煩悩の結びつきも断ち切ることはできない。なぜなら結びつきは末那識(意根)の結びつきであり、末那識の無明であるからである。意識は末那識に代わって無明を破ることはできず、三結(身見・戒禁取見・疑)を断じることもできない。意識による解脱は根本的に末那識の疑いを断つことができず、将来必ず退転する。一方、末那識が結びつきを断ち、我見を断った者は、永遠に退転してそれを認めなくなることはない。たとえ非常に大きな逆境に遭遇し、相手を騙して自分は我見を断った者ではない、菩薩ではないと言う可能性はあっても、心の内の末那識は信心と智慧の見地を退失することはなく、いかなる状況においても末那識は揺るぎなく堅固であり、永遠に菩提の道を退失することはない。
退転するか否かは意識の問題であり、末那識は退転する術を持たない。定着した智慧の認識は、外力によって変化することはない。衆生はその「我」によって生死流転を繰り返し、無量劫にわたり地獄で苦しみながらも、我見を断つことはなかった。末那識が証果し明心した者が、どうして容易に退転できようか。思想がそう簡単に変わるものだろうか。末那識が法を証して思想が転じたなら、再び元に戻ることはなく、そうでなければ仏となっても凡夫に戻ってしまう。末那識による証法がもし退転するならば、それは非常に奇妙なことである。もし思想がそう簡単に変わるなら、我見を断つことや悟りを開くことは非常に容易なことであり、仏となることも非常に容易なことである。それではどうして三大阿僧祇劫という辛苦の修道を経て、ようやく仏となることがあるだろうか。
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