衆生は皆、五蘊の機能作用を我と見做し、特に識蘊の六識の覚受を我及び我所とし、自らの受覚に執着するが故に、様々な善悪業行を造り、甚だしきは悪業を造るに至る。これにより業行は生死に沈淪し苦報を受ける。六識の覚受は何処から来るのか。根塵相触れて後に生じるもので、その後意根がこの覚受を我として執取し、貪愛の無明業を造作する。生死を解脱せんと欲すれば、六識の覚受の虚妄不実性・苦性・空性・非我性を観行し、覚受が空幻不実なるを知り、もはや覚受を重視せず、心が次第に空ずれば、我見を断じ、覚受を執取せず、貪瞋痴の煩悩が薄れ消滅し、無明悪業を造作しなくなる。覚受を空と観ずるは極めて重要なる事柄である。五蘊無我、覚受もまた非我、これこそ重要な思想観念である。
六識の覚受は観察し易いが、背後に隠れた意根の覚受は極めて重要かつ決定的である。意根は受あるが故に貪瞋痴の煩悩を生じ、覚受を執取して六識に業行を造作せしめる。意根は一切法を我のものとし、意識を我の用と見做す。故に我見を断つとは意根の我見を断じ、証悟もまた意根が第八識如来蔵を証得することを要する。従って一切法の証得は全て意根に在り、意識に非ず。如実如理の観行により、観行を深める程に根本的な修証が意根に在ると覚り、意根は成仏の鍵であり、生死輪廻の主宰者である。意根を薫修し成就すれば解脱を得て仏道を成就する。
意根が参究思量を重ね、一旦法を証すれば、従来の不如理作意を覆し、心行が変化し、五蘊を執取せざるを得ずして初歩の解脱を得る。これが修行の要諦である。何故多くの理論を学んだ者が、五蘊非我・空幻と理解しながら、なお五陰身のために染汚業行を造作し、心行を改めないのか。それらの「覚り」は意識の理解に過ぎず、意根の実証が無ければ、依然として五蘊を認取し、自心の煩悩に随順して業を造る。故に全ての「覚り」は信頼に足らず、如何なる法も意根が証得して初めて真実となる。
意根は常に如来蔵の種々の功徳を自己のものとし、如来蔵が生じた一切法を我及我所と見做す。一切法が如来蔵の幻化によること、己自身すら如来蔵の幻化であることを知らず、故に無明業行を造作する。仏法の修学は、意識をして理論上これらの法が無我なることを知らしめ、如来蔵の真実性を理解させ、更に意根を薫染して、意根に一切法中の如来蔵を思量証得せしめ、一切法が我及我所に非ざることを証得させることにある。
一切法は如来蔵の幻化であり、意根の所有に非ず、全て如来蔵の機能作用である。意根がこの理を証得して初めて心は空じ、自我五蘊を執取せず、我執を断ずるのみならず法執をも断じ、法執断尽して究竟成仏する。故に修行の要諦は全て意根に在る。無明は意根のものであり、無明を断ずるとは意根の無明を断じ、煩悩を断ずるとは意根の煩悩を断じ、解脱を得るとは意根に解脱を得させることである。意根が一切法を執取せざれば束縛無し、これが解脱である。成仏するのは誰か。六識は生々世々に断滅する故に成仏できず、意根が成仏する。如来蔵も成仏せず、究竟理地においては意根も成仏せず、成仏の日に至れば成仏すべき仏無しと知り、初めて究竟成仏するのである。
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