衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年02月28日    金曜日     第1開示 合計4335開示

一切法の証得は意根に在り

衆生はみな五蘊の機能作用を我と見做し、特に識陰である六識の覚受を我及び我所と見做して、自らの受覚に執着し、これによって様々な善悪の業行を造り出し、甚だしきに至っては悪業行を厭わず造り出すため、業行によって生死に沈淪し苦報を受けるのである。六識の覚受はどこから来るのか。それは根塵が相触れた後に生じるものであり、その後、意根がこの覚受を我として執取し、貪愛の無明業を造り出す。生死を解除しようとするならば、六識の覚受が虚妄不実であること、苦であること、空であること、非我であることを観行し、覚受が空幻で実体のないものであると知り、もはや覚受を重視せず、心が次第に空となれば、我見を断つことができ、覚受を執取しなくなり、貪瞋痴の煩悩は薄れ消滅し、無明の悪業を造らなくなる。覚受を空と観じることは非常に重要なことであり、五蘊は無我であり、覚受もまた非我であるということは、極めて重要な思想観念である。

六識の覚受は観察しやすいが、その背後に隠れた意根の覚受は非常に重要かつ決定的である。意根は受があるが故に貪瞋痴の煩悩が生じ、覚受を執取することによって六識に業行を造り出させる。意根は一切の法はみな我のものであり、全て我が所有に属すると考え、意識を我の作用と見做している。したがって、我見を断つとは意根の我見を断つことであり、証悟もまた意根が第八識である如来蔵を証得することである。よって、一切の法の証得は全て意根にかかっており、意識によるのではない。如実如理の観行を通じて、観行を重ねれば重ねるほど、根本的な修証はまさに意根にあると感じるようになり、意根は成仏の鍵であり、生死輪廻の主宰者でもある。意根を薫修して成功させれば、解脱を得て仏道を成就するのである。

意根が参究と思量を通じて、一旦法を証得すれば、元の不如理作意を覆し、心行が変化し、五蘊を執取しなくなり、初歩的な解脱を得る。これが修行の要諦である。なぜ一部の人は多くの理論を学んだ後、五蘊は我ではない、空であり幻化であると感じながらも、依然として五陰身のために染汚の業行を造り出し、自らの心行を少しも変えないのか。それは、そのような「感じ」は意識が理解したに過ぎないものであり、全く重要ではないからである。意根が実証していなければ、相変わらず五蘊を認め取り、自心の煩悩に随順して業を造り出す。したがって、あらゆる「感じ」は信頼できず、如何なる法も意根が証得して初めて真実となるのである。

意根もまた常に如来蔵の種々の功徳を自らのものと見做し、如来蔵が生み出した一切の法を我及び我所と見做している。一切の法は如来蔵によって幻化されたものであることを知らず、自分自身すらも如来蔵が幻化したものであることを知らない。それ故に無明の業行を造り出すのである。仏法を修学するとは、意識に理論上これらの法が無我であること、如来蔵の真実性を知らしめ、その後、意根を薫染して、意根に一切の法の中の如来蔵を思量・証得させ、一切の法が我でもなければ我所でもないことを証得させることである。

一切の法は如来蔵によって幻化されたものであり、意根のものではない。全て如来蔵の機能作用である。意根がこの理を証得して初めて、心は空となり、自我である五蘊を執取しなくなる。これによって我執を断つだけでなく、法執も断つことができ、法執が断じ尽くされれば究竟の成仏を果たす。したがって、修行の要諦は全て意根にある。無明は意根のものであり、無明を断除するとは意根の無明を断除することである。煩悩を断除するとは意根の煩悩を断除することであり、解脱を得るとは意根に解脱を得させることである。意根が一切の法を執取しなければ、束縛はなくなる。これが解脱である。成仏とは誰が成仏するのか。六識は生々世々で断滅するため、六識は成仏できず、意根が成仏するのである。如来蔵も成仏せず、究竟の理地においては、意根も成仏しない。成仏のその日になれば、成すべき仏がないことを知り、その時初めて究竟の成仏が可能となるのである。


——生如法師の開示
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