ジョブズはこう言った。「直感を信じなさい。それは思考を超越し、思考では見えないものを見せてくれる」と。ジョブズの言う直感とは意根の覚知であり、思惟とは意識の覚知である。意識が覚知し得る法は限られた量であるが、意根の覚知は無限量である。意識は意根が覚知し得る多くの法を覚知することができない。
なぜ意根の覚知を直感と呼ぶのか? 意根は如来蔵に依って一切の法を直接了知するからである。意識が法を了知するには必ず意根を頼りとし、間接的に了知する。楞厳経に「意根は黙して一切の法を容れ」とあるように、一切の法は意根が速やかに縁じ得る。法に対する了知の程度は別の問題である。故に意根の覚知は極めて速く、直接法と相対し、即座に法を了別する。知るは即ち知り、知らぬは即ち知らず。意識の分析推理を経ず、この時まだ意識は生起していない。一旦法が意識に落ち込めば、必ずや一連の思惟・分析・推理・判断が必要となり、多大な迂回を経る。時間も長くかかり、最終結果は真実から遠ざかる。推理推測の要素を含むため、当体に見、当体に知るものではないからだ。
かつて禅師が学人を導いて悟りを開かせる際、問いを発して学人が目を反らせ頭を掻き考え込むと、禅師は即座に板子を打ち「会得すべきなら即座に会得せよ。何を思量しているのか」と戒めた。禅師たちは皆、学人に直覚的に悟道させようとし、思惟に落とさない。問いの当体に悟れば悟り、悟らねば悟らず、意識の思惟に堕することを許さない。もし禅師が悟道へ導く際、あなたが考えに考えを重ねるなら、その思惟が始まった瞬間に即座に一棒で家へ追い返すべきである。誰が何度も考え込むことを許したのか。ところが今時の人々の中には数時間、いや数日も考えて「悟った」とする者があるが、その結果は更に信頼できない。答えは推測で当たるかもしれないが、たとえ合っていても真実ではない。意識で考え出したものであり、直接見たものではなく、意根が親しく見たものではないからだ。
ある人がある事を知っているかどうかを問いただす時、その人が言葉を濁し考えに考えて直接答えないなら、その人の言葉は信頼できない。その思惟には隠蔽や偽りの要素が混入している。例えばあなたが北京の様子を思惟・分析・推理・想像・推測し、最終的に「北京はかくかくの様子だ」と断定したとする。仮に推測が当たっていたとしても、あなたは北京に行ったことがないのだから、北京を親見した者ではない。北京に行き都に入った者こそが北京を親見した者であり、北京の様子を真実詳細に、極めて確信を持って疑いの余地なく語ることができる。これは我見を断じる三縛結を断除し、疑惑を断ち切ることに相当する。北京に行ったことのない者が如何に北京の様子を描写しても、心の中には不安が残り、心もとなく、100%の確信を持てない。これは意識による解悟に相当し、三縛結を断じることができず、疑いを断ち切って信を生じることはできない。
自らが陰でひそかに十分な功夫を積み、あと一歩という所まで来た時、初めて禅師はあなたを導いて悟りを証得させることができる。水が渠になれば自然に成るが如く、全く作為なく、少しの偽りもない。あるいはただ因緣の時節を待つだけなら、禅師はあなたを観察し、状態に留意し、時節が至ったかどうかを見極める。時節が至れば機縁を与えて悟入させる。もし観察してまだ不足が多いと見れば、禅師は決して手を下して導こうとはしない。ところが今時の悟りでは、学人が十万八千里も不足しているのに、無理に鉄鉤で引きずり出そうとする。結果は大根を引き抜くが如く、生きたまま引き千切ってしまう。後世の果報は極めて恐ろしいものとなる。
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