衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年03月02日    日曜日     第1 回の開示 合計4336回の開示

直観による悟りこそ真の悟り

スティーブ・ジョブズは「直感を信じよ、それは思考を超越し、思考が見えないものを見せてくれる」と言いました。ジョブズの言う直感とは意根の覚知であり、思惟とは意識の覚知を指します。意識が覚知し得る法は有限量ですが、意根の覚知は無限量であり、意識は意根の覚知し得る法の多くを認識できません。

なぜ意根の覚知を直感と呼ぶのでしょうか。意根は如来蔵に依って一切の法を直接了知するためで、意識が法を了知するには意根を媒介とせねばならず、間接的だからです。『楞厳経』では「意根は黙して一切の法を容れ、一切の法を速やかに縁じ得る」と説かれます。法に対する認識の深浅は別として、意根の覚知は極めて迅速で、直接法に対峙し、即座に弁別します。知るものは知り、知らぬものは知らず、意識の分析推理を経ず、この時点ではまだ意識は生起していません。一旦法が意識に落ちると、必ず思惟・分析・推理・判断という迂遠な過程を経ることになり、時間がかかる上に結果も不確かです。推測の要素を含むため、現前即時の見性とは異なるのです。

かつて禅師が学人を導いて悟りを開かせる際、問いを発して学人が目を伏せて思索を始めると、禅師は即座に警策を打ち「会得するなら即座にせよ、何を思量しているのか」と戒めました。禅師たちは全て直感による悟道を導き、思惟に堕することを許しません。問いの現前において悟るか否かが決まり、意識の思惟に堕することを厳しく禁じたのです。もし禅師が悟道を導く際、学人が延々と思索を重ねるなら、その初動の段階で警策を加えて追い返すべきです。ところが現代では数時間、あるいは数日かけて「悟った」とする例がありますが、これは極めて信憑性に欠けます。仮に結論が正しくとも、意識の推量によるものは真実見性ではなく、意根の直観ではないからです。

ある人に某事の有無を問いただす時、もしその人が言葉を濁して即答しないなら、その言葉は信用できません。そこには思惟による虚偽の粉飾が含まれているからです。例えば北京の様子を思惟・分析・推理・空想を重ね、最終的に「北京はかくかくの様だ」と断定したとします。仮にそれが正解でも、あなたは北京を実際に見たわけではありません。真実の北京を知るには、自ら北京に入城して現量体験する必要があります。その時こそ確信に満ちた細密な描写が可能となり、一切の疑いを挟む余地がなくなります。これは「我見を断じて三縛結を断除する」ことに通じ、疑惑を断じた境地です。これに対し、北京未踏の者の説明は如何に精巧でも心許ないもので、意識による解悟の域を出ず、三縛結を断じ得ず、疑いを断じて信を生ずることはできません。

自らが陰日向に修行を積み、悟りの一線に迫った時、禅師は自然に導きを授けます。水到渠成の如く、何の作為も虚偽もない自然な悟りです。あるいは因縁時節を待つ場合、禅師は学人の状態を観察し、時至れば機縁を与えて悟入させます。もし未だ程遠いと見れば、決して安易に導きはしません。ところが現代の「悟り」は十万八千里も隔たった者を鉄鉤で強引に引き寄せ、大根を引き抜く如く無理矢理得させます。これは命を損なう行為であり、後世の果報は極めて恐るべきものとなります。


——生如法師の開示
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