衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年02月14日    金曜日     第1開示 合計4328開示

排除法によって明心できるか

排除法とは何か。たとえば自分の心中に一つの標的を定め、自分の選んだ範囲内で標的と異なる対象を排除していくと、残った一つが自分の心中の標的として確立される。選んだ範囲が全面的かどうかにかかわらず、自己確認さえすれば、自分で自分を是とするようになる。明心して果を証する方法は実に簡単だというわけである。

たとえ一匹の犬を訓練したとしても、犬は排除法によって主人の指定した物を見つけられる。その他の畜生も訓練すればできるようになる。これはあまり頭を使わず、労力もかからず、善根福徳も要らず、禅定も要らず、持戒も要らず、三十七道品を精勤努力して修習する必要もないからである。白丁(無学の者)でさえ人の暗示の下で明心証果できてしまうという。たとえば主人が犬の前にABCの三枚のカードを広げ、どれがCかを指し示させるとする。犬はまずAを指すと、主人は首を振って「違う」と言う。そこで犬はBを指すと、主人は再び首を振って「違う」と言う。最後にカードが一枚残るが、考えるまでもなく残りがCであることは分かるので、犬は自然にCを指し示し、主人は「今度は正しい」と言う。そこで犬は喜んで、自分はよくできたと思い、主人から褒美の骨一本をもらった。

排除法で第八識を探すのもこれと同じである。識は全部で八つしかない。六塵を知る六識は間違いなく第八識ではないのだから、一気に六つが排除され、意根と第八識の二つが残る。意根は一般の人には本当に観察できず、何物であるかも分からない。たとえ「常にあらゆる処で作主しているあれだ」と教えてもらっても、やはり意根は見つけられない。意根を見つけるのは非常に難しく、意根の了別性を観察するなどもってのほかである。そこで意根は排除して探すのをやめ、第八識だけを探すことになる。

第八識はどのようなものか。多くの人が第八識は六塵を了別しないと知っているので、あれこれ探し回った末、六塵を了別しないらしい「何か」を見つける。想像してみると、この「何か」は了別性があるらしく、了別しているのは六塵ではないらしい。はたして何を了別しているのかについては、実は観察できない。開悟後に別相智・道種智を得た者でなければ第八識の了別性は観察できず、第八識がはたして何を了別できるのかを知るのは、凡夫にはまったく不可能で、理論に基づいて推測し想像することしかできないからである。最後に考えてみると、第八識は根身・器界を了別しているらしい。経論にみなそう書いてあるのだから、これで間違いない、これだ、と急いで喜々として確認しに行き、疑いがなくなったように感じ、三縛結を断除したつもりになる。

このような知能が生まれつきのものでないとすれば、後天的に脳に水が入ったことがあるに違いない。脳の発達した子供にも及ばないような者が、どうして一心に菩薩道を修証しようと願う菩薩たり得ようか。あまりにも単純すぎる。もし過去の祖師たちに出会ったなら、祖師たちの直心をもってすれば、彼らは一言も口を開くことなく、直接、大棒で頭が開花するまで殴りつけただろう。よくも宗門を禍つものだ。幼稚園レベルの知能では教育のしようがない。私が宗門の興亡を顧みないなら、このような者は一瞥すら与えないところである。しかし宗門の明心は仏法修行の最も肝要なところであり、衆生の生死の命門であり、今世と未来世の無数の衆生の帰依解脱のところである。もし人がこの門を破壊してしまえば、衆生はもう二度と鯉が龍門を躍ることはできなくなる。

たとえ知解宗徒であっても、この排除法よりははるかに尊貴である。排除法にはほとんど知解が要らず、多少の知能も要らない。豆を選ぶように、悪い豆を選り分けてしまえば、残りはみな良い豆だというわけで、なんと簡単なことか。なぜ四念処、七覚分、八正道、四正勤、四如意足、五根五力などを修する必要があろうか。受戒持戒も要らず、禅定を修する必要もなく、いかなる定力も要らない。豆を選ぶ作業にこれほどの面倒は必要ない。仏の説かれたそれらの条件はすべて余計なものであり、最上の根器には仏説に従う必要などないというわけである。

六祖の座下の十三歳の神会という小僧は聡明伶俐にして善根深厚く、求法の心切実で、山を越え谷を越え千里の道のりを経て六祖のもとに道を求めに来た。六祖はただ彼を知解宗徒と印可しただけである。当時は禅風があれほど隆盛で、開悟した祖師や善知識があれほど多かったにもかかわらず、神会和尚はなんと九十六歳まで生きながら依然として知解宗徒であり、多くの著作を残しながら、一生を北宗の神秀和尚の漸修一派との闘法争宗に費やした。今の人のうち、誰が神会和尚のような求法の精神と善根福徳を持っているというのか。それでありながら排除法で第八識を探し、神会和尚を超えようなどと夢想するとは。第八識はそんなふうに見つかるものではない。憶測の方法なら憶測で出てくるかもしれないが、それは絵に描いた餅で飢えを癒すようなもので、終に腹を満たすことはない。とにかく、皆さんに一つの事実を認識してほしい。末法の時代はやはり末法の時代である。決して妄想を抱いてはならない。実事求是を善とし、妄想を悪とすべきである。

——生如法師の開示
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