或る人が言うには、明心や初果を証することは煩悩を断っておらず、身心に何の変化もなく、転換がないのは正常であると。しかしこれは非常に異常なことである。このような重大な生死の事柄が、従来の重大な誤った知見を覆し、五蘊世間に対する認識を有から空へと転じたなら、どうして身心に何の変化もないことがありえようか。四正勤を如法に修行すれば、どうして身心が変化しないことがあろうか。七覚支を理にかなって修行すれば、どうして身心が変わらないことがあろうか。心が変わらないのに、どうして証果や明心と言えようか。世間法においてさえ、意根が真に何事かを知れば、異常なほど感動し、身体に大きな変化が生じ、心は激しく動揺し、あるいは熱涙にむせび、あるいは身心が震え、あるいは神妙な面持ちとなり、あるいは数日眠れぬなどということがある。
初果を証する前に三十七道品を修行する過程において、身心は徐々に変化し、以前とは大きく異なるものとなる。もしその差異が明らかになり、欲界の五品の惑を断じたなら、それは初果向である。もし身心が始終変化しないなら、それは如法な修行をしておらず、修行の方向が誤っているか、あるいは全く精進していないか、広学多聞と情思意解に留まっているか、世俗法に心を用いることが多く、法理が真に心に入っていないことを示す。
倶舎論には、真に道を修め、理に適った修道を行えば、必ず煩悩惑を降伏させ、次いで煩悩惑を断除するとある。修道の過程においてもそうであり、修道の結果においても同様である。そうして初果向となり、再び初果となるのである。一片の煩悩惑も断たず、身心に転換がないなら、依然として具縛の凡夫に属し、煩悩惑によって縛られ身動きできず、どうして菩提道に進み、身分を転換できようか。もし強引に身分を求めれば、名ばかりで実質が伴わず、名実相伴わず、世を欺き名を盗む者と呼ばれる。
多くの人は、法を説くことができれば既に実証したと考えているが、実際はそうではない。実証を経ずに説法すれば、真の指導的意義を持たない。その道を自ら歩んでいなければ、他人に具体的な進み方を指導できず、自らの心に貪瞋痴の煩悩が激しく、至る所に滲漏があれば、他人の煩悩降伏や断除を指導することは不可能である。
一指禅の公案がある。師がある尼僧を導く際に人差し指を立てると、即座に悟った。小沙弥がこれを見て「これが悟りか」と思い、師の不在時に人々の問法に同じく人差し指を立て、これが真如であると告げた。鸚鵡返しに真似て様になっていた。今人の悟りはこの小沙弥の悟りと変わるところがない。祖師方の作略に似た身振り手振りで、機鋒らしく見え、人を導くようにも見えるが、素人は騒ぎ立て、玄人は奥義を見る。これらの手法は外行人を欺くに過ぎない。様々な機鋒は八識和合であり、真妄混在する。真妄を弁えず妄を真と見做せば、如何に身振りしても機鋒とはならない。
阿難が仏涅槃後百年に、小沙弥が生滅法を「水老鶴」と誤って誦するのを聞き、正した。しかし小沙弥が師にどちらが正しいか問うと、師は「阿難の言うことを聞くな。彼はもう耄碌している。私が教えた通りに誦せよ」と言った。小沙弥は相変わらずの誦み方を続け、阿難はこれを聞き、仏が涅槃してわずか百年で仏法がこのように誤伝されるなら、未来世に仏から遠ざかるにつれ、仏法はどうなるか、と嘆いた。衆生の愚痴さに心を痛めた阿難は直ちに涅槃に入ることを決意し、仏法が徐々に破壊される惨状を見るに忍びなかった。当時ですら仏法は変質していたのに、まして数千年後の今日においてをや。今の時代は聖人が巷に満ちる時代ではなく、多くの人々が仏法の修証を深刻に誤解している。
今や大小乗の法はもはや貴重ではなく、稀有の法ではない。法を聞き思惟するだけで果位を得られ、戒定慧も必要なく、六度万行も修する必要がない。戒を守り定を修する者は愚か者とされる。今やあらゆる果が容易に得られ、例えば如夢観・如幻観・十回向位の果も難事ではなく、如来蔵観行修証の法は口伝えするだけで果を家に収められる。衆生の愚痴と顛倒は最早言葉もないほどである。
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