この娑婆世界(しゃばせかい)における修行の岐路は非常に多く、相当な善根(ぜんこん)と福徳(ふくとく)がなければ、真に方向を見極めるのは難しい。特に微細な点においては、その道を歩んだことがなければ、容易に誤った道に入り込んでしまう。小さな岐路でさえ修行時間を極めて多く浪費させ、そこから脱するのも容易ではない。ましてや大きな岐路はなおさら見極めにくく、脱出も難しい。証果(しょうか)と明心(みょうしん)とは、果たして意識のみが証果明心すればよいのか、それとも意根(いこん)が必ず意識と共に証果明心しなければならないのか。この問題は小さな岐路か、それとも大きな岐路か。煩悩を断たずして菩提(ぼだい)を証することができるというのは、大きな岐路か小さな岐路か。
証法(しょうほう)の問題は、衆生個人および仏教全体にとって最も重大な問題であり、生死存亡の鍵となる問題であり転換点である。したがって他のいかなる教えも誤ることがあっても、この問題だけは絶対に誤ってはならない。この問題を誤れば、根本原則における重大な問題を誤ることになり、衆生と仏教の命運に関わる重大な問題を誤ることになる。末法(まっぽう)の世(よ)に近づけば近づくほど、仏法の修行と証得における岐路は増えていく。古代の人々は仏を学ぶことを「修」と「行」と言ったが、現代人で仏を学ぶ者の大多数は「学」と呼ぶことしかできず、「修」と「行」に及ぶことは稀である。しかし古代に修と行を実践した人々の中で悟りを開く者は遅くて少なかったのに対し、末法の世に学ぶ者の中では悟りを開く者が速くて多い。これは全く異常ではないか。もちろん異常である。仏法は将来滅びるが、それはここで滅びるのであり、修行と証得の根源から滅びるのである。もし実証がなければ、仏法は存続し難くなる。それゆえ私は長年、意根の証果、意根の明心について説き、意根に関する書籍を何冊も著してきた。仏法が急速に滅ぼされることを心から危惧しているのである。
私は360度死角なく意根の証果について説いてきたが、それでもなお鈍根(どんこん)の学者や阿師(あし)たちがどうしてもこの理を認めようとせず、また認めることもできない。なぜなら、いったんこの理を認めてしまえば、自分自身の大乗小乗の果位(かい)が台無しになり、消え失せてしまい、凡夫(ぼんぷ)の一人に成り下がってしまうからである。実に悔しいことだ。しかしこれは非常に非理性的な人のすることであり、道業(どうごう)を重んじる者でもなければ、法や真理を帰依(きえ)の対象とする者でもない。事実を回避することは大丈夫(だいじょうぶ)のなすべきことではなく、我執(がしゅう)が強いことの現れである。
もし衆生の善根と福徳が厚ければ、たとえ岐路に遭遇したとしても、自らの善根と福徳によって最終的に岐路から抜け出し、正しい道に回帰することができる。したがって学仏者(がくぶつしゃ)は一人一人が多く福徳を修め、善根を多く植えるべきである。そうしてこそ今生(こんじょう)と来世(らいせ)において岐路に入らず、法を択(えら)ぶ眼(まなこ)を持ち、弁別力を備え、誤った導きを受けず、悪道(あくどう)に入らないことを保証できる。末法の世に近づけば近づくほど、福を修める機会は増え、善根を植える機会も増える。真に悟りを得ようと願い、大いなる発心(ほっしん)と大願(たいがん)を起こす者は皆、それぞれの機会をしっかりと捉え、善根と福徳を多く植えるべきである。そうすれば自らが生々世々(しょうしょうせせ)にわたって限りなく利益(りやく)を受けるだけでなく、仏道(ぶつどう)の修行と証得のプロセスを加速し、一日も早く智慧(ちえ)による解脱(げだつ)を得て、自利利他(じりりた)を成就することができるのである。
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