仏法修行の最高境地は、仏陀の理事円融、事事円融、事事無礙であり、すべて理に合致し、理は事を顕し、事は理を顕し、理事は永遠に乖離しないことである。これを達成するには、仏法修行の最初の見道から始め、最終的に見道して仏陀となるまで進まねばならない。前後の見道は次第に深まり、すなわち見る理はますます深く細やかになり、事もそれに伴ってますます円融円満となる。最初の見道時から、事は理に従って進み、理がどこへ至れば事もそこに随従し、乖離することなく、仏陀の最終見道、すなわち明星を夜に見て悟りを開く時に至って、理が円満すれば、一切の事は即時にそれに従ってすべて円満となる。理事はもはや修する必要がなく、位は無上の法王と尊ばれる。
見道は理上の見と事上の見に分かれる。理見と事見にはどんな違いがあるのか。理上の見とは、理から理へと進み、意識のレベルで理を十分に認識し、理を明らかにするが、事は随従しない。この時、事と理は乖離している。なぜなら意根が見ていないため、定慧が具足円融した三昧の境界は現れず、事はそれに随従せず、事は意根によって掌握されるからである。意識は事を随従させ円融させることはできない。
一方、事上の見道とは、事の上で理を参究し証得することである。こうして見道すれば、事は必ず理に合い、事は必ず理に従い、理事は必ず融合して乖離せず、ここにおいて初めて脱胎換骨し、心を洗い面を改めることができる。外見上は同じ人間であるが、心の行いから見ればもはや旧時の行いはなく、思想と品性は一新され、心は空無我となり、有為の上に無為が顕れ、無為はまた有為のためにあり、空にして空にあらず、空にあらずして空である。
したがって真の見道とは、事の上で十分に参究した理の見と理への入りであり、事が理に従い、事が理を顕す理の証得である。理事は分かたず、三昧が随従する。理事が融合しても必ずしも円融ではなく、また必ずしも無礙ではない。なぜなら理が徹していないからであり、理が徹すれば即ち仏陀となる。事の上で理を見ることは証得であるが、事の上で理を見なければ証得ではない。もし理が理のみで事と融合しなければ、この理は事を解決できず、事を解決できない理は実用性がない。ゆえに理を知るだけで、事の上で理を見ず理を顕さなければ、それは実証ではない。
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