衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年01月06日    月曜日     第1 回の開示 合計4309回の開示

どうすれば真修実証によって現量の智慧を得ることができますか

多くの人々は自分が理解した法を実証と見做し、その理解さえも非常に表面的で、法について推測や推論、憶測を巡らせ、解と解悟と証悟の境界や差異を見極められず、大きな誤解を生じて大妄語に至っています。仏法の答えや結論の多くは仏が示されたものであり、一部は諸大菩薩や善知識たちが解説されたものです。修行の過程でこれらの結論を理解することは実証ではなく、解悟にも遠く及ばず、解悟からも程遠いものです。

実証とは何か。例えば仏が「一切法は夢幻の如し」と説かれたのは、諸仏が修証を通じて得た結論であり、仏の証量です。他者がこれを理解しても単なる理解に過ぎず、解悟にも該当しません。真に夢幻の如しを証悟すれば菩薩十回向位に至り、まもなく初地に入る資格を得ます。凡夫衆生が経典を読んで諸法が夢幻の如しと理解しただけで、十回向位の大菩薩になれるでしょうか。明らかに不可能です。戒定慧と菩薩の六波羅蜜を具足せず、いずれの修行も円満でなく、初発心さえも覚らない者が、どうして一大阿僧祇劫に近い時を超えて十回向位の大菩薩となれましょうか。

五蘊世間が夢幻の如しを実証しようとするなら、戒定慧と菩薩の六波羅蜜を充分に修めた上で、浅きより深きへと観行と参究を重ね、次第に各層の法を証得し、禅宗の初関・二関を経て遂に三関に至り、ようやく夢幻観を証得するのです。これは多数劫の時を要し、一大阿僧祇劫に近い修行が必要です。夢幻の如しに対する理解も多数の層に分かれており、完全に究竟した理解であっても実証とは等しからず、実際の参究過程がなく証明が無いため、結論は自ら得たものではないからです。

幾何学の証明問題のように、最終結論は教師から与えられた完成品であり、自ら導き出したものではありません。自らが一歩ずつ証明し、過程と段階を踏んで初めて教師の結論を証明できます。過程が不完全で真実でなければ、教師と同じ結論を得ても誤りであり、現量証得ではないのです。仏法の道理も同様で、誰もが最終結論として夢幻の如しと語れますが、正理を説いても自らの現量証ではないのです。

仏法において仏は三蔵十二部経に無数の最終答えと結論を示されました。たとえ三蔵十二部経を暗誦し、滔々と説法できても、自らの証量ではなく、単なる理解を示すに過ぎず、解悟との隔たりは大きく、証悟は論外です。仏が説かれたあらゆる法、ひいては一言一句も、深甚な禅定の中で思惟参究し、如実如理に観行して初めて一一実証可能となります。実証後の智慧こそ自らの現量智慧であり、さもなくば如何なる説法も自証ではなく、真実の智慧と説法が相応しません。

真に実証し成就を期すなら、五蘊を観ずる細かな情节さえ忘れ去り、捨て去る必要があります。只管に観行と参究に専念し、細部は観行時に自ら明らかにして初めて智慧が生まれます。多くの人が工夫を意根に届かせられないのは、禅定が決定的に不足し、如何に意根だけに思惟させるかを体得できないためです。定力が足りなければ、どうして体得できましょうか。禅定がない時は、何も参究せぬが最善です。意識が聡明なら多くの解釈を生みますが真実の役には立たず、口先だけは達者でも実用性はありません。意識による解法は解かぬ方が良く、禅定が向上し因縁が具足する時を待って参究するのが最良です。

——生如法師の開示
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