衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年01月04日    土曜日     第1 回の開示 合計4308回の開示

理観と事見

仏法修証の最高境地とは、仏陀の理事円融であり、事事円融、事事無礙、全て理に合い、理が事を顕し、事が理を顕し、理事永遠に断絶しないことである。これを実現するには、仏法修証における最初の見道から始め、最終的に見道成仏に至らねばならない。前後の見道は次第に深化し、即ち理の認識が深細化するにつれ、事もまた円満へと向かう。最初の見道時より、事は理に従って展開し、理の到るところに事が追随し、断絶することなく、仏陀が最終的に見道し、明星を観て悟りを開く時、理が円満すれば、一切の事が即時に円満に至り、理事共に修する必要なく、無上の法王として尊位に即く。

見道は理上の見と事上の見に分かれる。理見と事見の違いは何か。理上の見とは理から理へ、意識層面で理を充分に認識し理解するが、事が追随しない状態である。この時、事と理は断絶している。意根が悟見を得ていないため、定慧具足の三昧境界が現れず、事はこれに追随せず、事は意根に支配され、意識では事を追随円融させることができない。

一方、事上の見道とは、事において理を参究し証得するものである。この見道により事は必ず理に合い、理に従い、理事は融合して断絶しない。これにより初めて脱胎換骨し、心行を一新する。外見は同じ人間でも、心行には旧き行いがなく、思想品格が一新され、心は空無我となり、有為の上に無為を顕し、無為はまた有為のためにあり、空にして空ならず、空ならざるが故に空となる。

故に真の見道とは、事上で充分に参究した理の悟入であり、事が理に従い、理を顕す証得である。理事は分離せず、三昧が追随する。理事の融合は必ずしも円融無礙ではない。理が徹すれば仏となる。事上で理を悟ることを証得といい、事に理を見なければ証ではない。理が理のみで事と融合しなければ、この理は事を解決できず、事を解決できない理は実用性を失う。故に理を知るのみで、事上で理を悟り顕さなければ、実証とは言えない。

——生如法師の開示
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