衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年01月02日    木曜日     第1開示 合計4307開示

意識の妄想は実修に代わりえない

望遠鏡を使えば、はるか遠くの星空を望み、広大な海原を望み、天の果ての山々や大地を望むことができます。しかし、身体は千山万水を隔てています。どんなに遠く高くを見渡しても、そこに身を置いていることを意味しません。定められた目標は、指先で到達できるものではなく、口先で言い表せるものでもなく、足で距離を測らなければならないため、必ず歩みを始めなければなりません。一歩一歩歩んでこそ、走らず跳ばず、ましてや飛び越えることなく、確実に目的地に到達できます。道のりが遠いからと意識の妄想に頼ってはならず、苦労が多いからと意識の妄想に頼ってはならず、ましてや旅費が高いからと意識の妄想に頼ってはなりません。空想にふけっていては、結局は幻影に過ぎません。王土を望み、その地に身を置くためには、必ず意根を用いて足元を固め、一歩一歩測量し、自らその土地の一尺一寸に触れなければなりません。

時として仏法を少し学ぶと、意識は自分がすべてを変えられると錯覚し、風雨を呼び起こし、力を入れれば何でも成し遂げられ、困難などなく、成仏さえもさほど難しくないと思い込むことがあります。しかし実際には、自らの一つの心の動きさえ制御できず、一つのことに固執して離れられず、身・口・意の行いも何一つ変えられません。

これはなぜでしょうか。意根による実証が欠けているためです。意識が当然のように何かを思い、理解し、考えても、それは地に足がつかず、力を出し切れず、往々にしてどうしようもないと感じるのです。たとえ成仏がとても容易に思えても、しっかりと三大阿僧祇劫を経なければなりません。悟りを開き心を明らかにすることが白菜を食べるように容易に思えても、一歩一歩四正勤・七覚支・八正道を修め、堅実に戒律を守り禅定を修め、四念処を修め、誠実に菩薩の六波羅蜜を修めきらねばなりません。仏が説かれたこれらの修行の道は、無用な飾りではなく、必ず実践すべきものです。大多数の人は一生かけてこれらの前提条件を修めきるのが精一杯であり、これらの条件が円満に備わっていなければ、意識の推理や妄想で悟りを開き心を明らかにしようとしても、それは何の役にも立ちません。

なぜそう言えるのでしょうか。実修実証は意根に関わるからです。三十七道品と菩薩の六波羅蜜を修める過程で、意根を薫習し、意根に固有の知見を変えていくのです。修めが十分に達した時、初めて意根の知見が変わり、すべてが意根の変化に伴って変わります。その時こそ悟りを開き心を明らかにできるのです。しかし、意根が自らの固執した知見を変えるのは容易ではありません。意根が変わらなければ、何も変わりません。したがって、仏法を学ぶにはやはり堅実に実修すべきであり、意識の妄想は無益です。たとえ明日にも成仏できると思えても、三大無量劫を経なければなりません。ある人々はなおも高説をぶち、「相を取らず分別せず、心に住まわず執わず」などと論じていますが、それは何地の菩薩になってから言うべきことであり、地前の菩薩には到底できません。意識で我見を断ち、意識で悟りを開き、意識で心を明らかにし、意識で成仏するということを、まず夢の中で試してみてください。果たしてうまくいきますか?


——生如法師の開示
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