望遠鏡は一瞬にして数キロ、数十キロ離れた山や海を見ることができるが、実際に山や海を目で見て触れるためには、自ら数十キロの道を歩き、山の麓や海辺まで行かなければならない。そうして初めて眼前の山や海を直視し、触れ、その姿形を知り、人に向かって「あの山と海をこの目で見た。実に壮観で、私の心境は一瞬で開かれ、この上なく喜ばしい」と語ることができる。三昧の境界もこれに似ており、意根が自ら到達し、望遠鏡を離れて肉眼で直視してこそ、定慧等持の三昧が得られる。意根が到達しなければ、それは望遠鏡を通した見方に過ぎず、真実の無条件・赤裸々な見方ではない。
意識は望遠鏡のようなもので、どれほど遠い境界を見ようとも、その見方は真実ではない。境界は曖昧模糊としており、意根の見るものは明瞭透徹、法の根源に徹する。もし意根が追従していなければ、意識の見るものを望遠鏡越しに見るに等しく、直見でも現境親臨でも証得でもない。意識の見るものは境界から遠く離れ、真実を見ず、あたかもレンズ越しに隔てられた景色の如く、細部は粗雑で輪郭のみ。詳細は意根自らが赴いて初めて明らかとなり、その所以を知るのである。
凡夫の地において意識が経典を学び仏の境界を知っても、意根が知らなければ仏境を証得したことにはならない。この種の知見は極めて粗雑で、不知と大差ない。仏境を親証し、細やかに深く真に知るためには、更に三大阿僧祇劫、即ち三無量劫を修行せねばならず、その過程に近道はない。修すべき法は全て修し、証すべき法は全て証し、戒定慧・三十七道品・菩薩六度等の諸行を一切省略せず、全行程を自ら踏破しなければならない。手抜きや近道は決して許されない。
凡夫の地で意識が真如三昧という名称を学び、その素晴らしさを感じても、具体的に何を指すのか、その境界がどういうものか、内心は全く知らない。知っているのは単なる空想に過ぎず、真如三昧の境界を直見するには更に一無量劫、即ち一大阿僧祇劫を要する。真如三昧は真如の境界であり、一切法の上に証得されるもので、一切法あるいは部分法が全て真如性であり、如来蔵の真実にして如如たる性質であり、一真法界の一部であるからだ。
一切法が如何に真如性であり、如何に真実の法界であるかは、道種智・唯識種智の境界であり、初地以上の如来家に入った仏子のみが現量観察できる。初地以上の菩薩摩訶薩は法身を分証し、即仏を分証し、一真法界を分証して、初めて一切法の部分的な真如性を知る。凡夫たとえ如来蔵を証得したとしても、真如三昧の智慧境界には程遠く、ただ思い描くのみで決して見ることはできず、見る時には既に道種智を具え、入地の大菩薩となっている。
凡夫の地で意識が金剛経を学び一切法が夢幻泡影と知っても、その感覚を得るには更に一阿僧祇劫に近い修行を経て十回向位に至り、初めて夢幻境界を親証しなければならない。その過程で次第に如来蔵を実証し、種々の三昧を発起し、初禅定を修め、貪瞋痴煩悩の現行を断じて三果人となり、禅宗三関を突破し、有余涅槃を現量証得し、命終に際し無余涅槃に入る力を得ながら敢えて入らず、一品思惑煩悩を留めて生生世世の五蘊身を潤し、自他共に度し続ける。これらの条件を満たさず、これらの境界を経なければ、意識が感じる夢幻泡影は単なる言葉の上の食事に等しく、どうして腹を満たせようか。
意識の望遠鏡が望むものと、意根が直に見るものは、雲泥の差がある。望むことは容易で迅速だが、親証には意根が一歩一歩足跡を刻み、自ら境界の縁に至らねばならず、極めて困難で、多大な代償と努力を要する。両者の見る境界は全く一致せず、故に望むことと証得することは別次元の話で、証得には相当の歳月が必要である。証得せぬ間は口先だけの満足に過ぎない。何かを証得することが容易だと思ってはならない。それは錯覚で、実際は決して容易ではなく、無量劫の業障は山の如く重く、排除し超えることは並大抵ではない。仏の加持力は不可思議だが、自らの業力も同様に不可思議である。業障が消滅し、善根福德等の因縁が具わる時、意根が意識との距離を縮め、意識の見るものと合一して初めて頓悟する。これ以外は全て誤解の誤りである。
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