衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年12月29日    日曜日     第1 回の開示 合計4305回の開示

意識の推理は観行や参究に等しくない

定を修し呼吸を観ずる時、意識はただ呼吸の行いを観察し、息の入出を知り、息の長短を知るべきで、「知」の本源が何であるかという念いを加える必要はない。この「知」が最終的にどのような結果をもたらすかを気にせず、それは将来のことであり、現在結果が現れていない以上、推測すべきではない。意識の推論は意識の一方的な願望に過ぎず、一方的な願望は永遠に問題を解決できず、意識と意根の双方の合意があって初めて物事が円満に解決され、最終的な結果がありのままに現れるのである。それを「証」と呼ぶのである。

意識の推論が悪いわけではないが、それは単なる道標に過ぎない。実際に進むかどうか、どのように進むかは、依然として意根の選択に依存する。意根が選択しなければ、意識がどれほど道案内をしても無駄である。時には意識が推論しなければ、かえって順調に問題を解決できる場合もあり、推論することが却って事を遅らせる。方向が正しければ、推論せずともより速く確実に進むことが可能である。意識を使いすぎることは良いことではなく、意識を使えば使うほど意根は無能になり、意根が無能であれば、それは即ち人間全体の無能であり、操作指揮システムに問題があれば、どうして操作できようか。

修行は愚者が行うものであり、賢すぎれば真摯に物事を行わなくなる。意識が大まかな方向を指し示したら、目を閉じて精神を養い、ひそかに監督すればよい。余計な干渉は不要である。意根が自らの能力によって一旦歩み出し、目的地に到達すれば、その能力は実に強大である。意識に引っ張られて進む限り、意根は無能で幼稚なままとなり、何事も成し遂げられない。

意識の推論は本質的に妄念であり、妄念とは見えないことを意味する。見えればもはや妄念とは呼ばれない。ある人々は意識で第八識を妄想し、ある場所で特定の作用を起こさせ、それを「明心開悟」と定義している。煩悩を断つ必要もなく、禅定を修める必要もなく、せいぜい数分から十数分ほど心を安定させれば見道できるという。このような行いの結果がどうなるかは、皆が理解できるはずである。もしこれが開悟と見なされるなら、夢の中で見たことも有効であり、夢で金山銀山を見れば、目覚めたら大金持ちになるはずである。夢の世界は現実ではなく事実ではない。独頭意識の推測などの行為をどうして真に受けられようか。大いなる智慧、真実の智慧を得ようとするなら、ひたすら定を修め観行に参究し、意識が機動的に結果を推導することを許してはならない。意根がその結果を認めなければ、意識のすべての所行は無駄に終わるのである。


——生如法師の開示
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意識と意根の二者の境界が一致して初めて証悟に至る

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