衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年01月08日    水曜日     第1 回の開示 合計4310回の開示

理論的研究は修行の正道にあらず

現代の仏教界には、理論的知識のみを重視する弊害が生じております。理論を学べば学ぶほど良いと考え、多くの学問を修めれば誇らしく思い、数々の文章や書物を著せば更なる誇りとする風潮があります。しかし、これらの理論的知識が自身の身・口・意の行いを指導し規範できるか、七識の心行を転換できるか、心を清浄にして無明を減少させ、真実の利益を得られるかといった本質的な問題については顧みず、「菩薩は煩悩に囚われず、正見を得れば自然に煩悩が断たれる」と弁明する者さえおります。

しかし現実は異なります。単に理論的知識や意識的な知見を有するだけでは、煩悩に対して全く無力であります。臨命終時に於ける来世の行先は、貪瞋痴の煩悩が現行するか否か、またそれらが造りし業行によって決定されるのであって、理論的知識や仏法上の知見によって決まるものではございません。故にこの問題は極めて重要であり、全ての仏教徒が真剣に受け止め、軽視すべきではございません。

理論と知見は、料理のレシピ本のようなものであります。幾冊もの料理書を学びながら、一度も台所で実践せず、食材の選別も調合も経験しない者が、その料理知識で空腹を解決できるでしょうか。貴重な時間を研究に費やし、著作を残し、弟子を集めて名声を得ながら、結局は空腹に耐えるしかなく、見掛け倒しに終わるのです。例えるなら、小学校から大学院、博士課程を経て博士后に至るまで理論のみを学び、大学以降でようやく実証研究に触れる子供の如し。知識そのものは生産工程に直結せず、実習と実践の段階を経て初めて生産力へ転換されるものであります。

仏法の学びもまた、五蘊の世間生活に応用されねばなりません。絶えざる戒律の保持と禅定の修練により、深甚なる三昧の中で五蘊と向き合い、身・口・意の行いと結び付け、理論を実践に移す必要がございます。自ら実証を重ね、無明を打破し、実智を増長させ、身心を改造転換する。これこそが真の修行成就であり、実益ある正道であります。


——生如法師の開示
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憶測推測は全く頼りにならない修行法である

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