衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2025年01月10日    金曜日     第1開示 合計4311開示

憶測推測は全く頼りにならない修行法である

衆生は智慧が限られており、禅定が不足しているため、深く思惟することができず、意根の思量も働きません。そのため、やや深遠な法については、憶測や推測の方法に頼る習慣があります。この憶測や推測は意識心の機能作用であり、意根の智慧はまったく関与しません。最も深刻な憶測は、軽々しく「悟りを開けば第八識がどのように根身器界を生じさせるか観察できる」と口にすることです。根とは身根(身体)を指し、第八識がどのように種子を用いて徐々に身根を生じさせるか、どのように眼根・耳根・鼻根・舌根を生じさせるかについては、悟りを開いた後さらに無量劫を修行しても、わずかに観察できる程度であり、二つの無量劫を経てようやく多くの部分を観察できるでしょう。器とは宇宙器世間(衆生が生存する空間環境)を指し、第八識がどのように種子を用いて宇宙器世間を生じさせるかについては、悟りを開いた後さらに一つの無量劫を修行してもおそらく観察できず、二つの無量劫を経てようやくある程度観察できるでしょう。

界とは十八界(六根・六塵・六識)を指し、第八識がどのように種子を用いて六根と六塵を生じさせるかについては、悟りを開いた後さらに一つの無量劫を修行しても観察するのは非常に困難であり、二つの無量劫を経てようやくある程度観察できるでしょう。第八識がどのように識種子を用いて六識を生じさせるかについては、悟りを開いた後さらに一つの無量劫を修行すればある程度観察できますが、完全に具足した観察はできません。しかし、何を観察できたとしても、それによって自らの内面が変化せず、身口意の行いがその観察によって何ら変わらないならば、いわゆる観察は観察ではなく、憶測や推測に過ぎません。憶測や推測はすべて意識の思惟方式・方法であり、主導識としての意根の思量には関わりません。そのため、憶測や推測した内容には作用力がなく、身口意の行いを転換させることができず、煩悩や悪業の種子を消除することができず、清浄な功徳の受用も生じません。

——生如法師の開示
前へ前へ

理論的研究は修行の正道にあらず

次へ 次へ

知解は証に非ず

ページトップへ戻る