衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年01月12日    日曜日     第1開示 合計4312開示

知解は証に非ず

常楽我浄は涅槃の四徳であり、常とは、仏陀の無垢識に種子の変異がなく、永遠に恒常不変を保つことを指す。楽とは、仏陀の一切の業障が永遠に尽きて残余なく、無垢識に苦受の種子が存在せず、残るすべては楽受と不苦不楽受の善業の種子であり、その果報は寂滅楽である。我とは、仏陀の無垢識において一切の生滅業種が滅し、業障の累(わずら)いを受けず、完全なる我性であり、我と称しうる。浄とは、仏陀の無垢識が一切の染汚(ぜんぬ)の種子を滅し尽くし、徹底的に清浄無垢となったことを指す。

第八識もまた業障の遮障(しゃしょう)を受ける。心体に業障の種子が宿存しなければ、第八識は無尽の功徳を発揮し、大千世界を照らす。あたかも仏陀の無垢識と寸分違わず、一法も遍(あまね)からずということがなく、一法も周(ゆきわた)らざることはなく、一法も現れざることはない。しかし衆生の第八識は業障の局限を受けるため、極めて多くの殊勝で美妙な境界を変現できず、衆生の分身を変造できず、仏国土を変造できず、一切の境を遍く縁(えん)じることができない。いわゆる第八識が局限を受けるとは、その無窮無尽の功徳作用が発揮できないことであり、殊勝ならざる功徳作用ではないということではない。仏地に至れば、第八識はもはや局限を受けず、一切の功徳作用をことごとく発揮する。

以上の道理はすべて理解し、知っているであろうか?人に解説できるであろうか?法に対する学習において、すべての理解と知は意識心に落ちており、意根の心中には落ちていない。解と知は得ていても、証(しょう)までは十万八千里の隔たりがあり、いやそれよりもはるかに遠い。たとえ人に解説し、百冊の書を著すことができても、証からは十万八千里も離れている。五蘊無我について、たとえすべて理解し、知ることができ、知解が深く透徹していても、それらは証ではなく、おそらく証からは極めて遠い距離がある。第八識について、いかに理解し知ろうとも、知解は深いかもしれず、第八識の功用を推測し琢磨(たくま)することさえできるかもしれないが、それも解に属し証ではない。証まではおそらく極めて遠く隔たっている。

多くの人々がこのような解を証と見做している。弁舌優れた者は善知識の立場で至る所で経典を講じ説法し、立て板に水のごとく話す。しかし如何なる場合でも、耳から入り口から出る法は証ではない。例えば蘇東坡の仏法に対する解:「八風吹けども動ぜず、端座す紫金蓮(しきんれん)に」。結果、禅師は「屁(へ)だ!」と評した。蘇東坡は見るや直ちに不機嫌になり、自分がこれほど良く書いたのに、なんと屁だと言うのか? そこで即座に川を渡り禅師のもとへ行き議論しようとした。禅師は言った「お前は八風吹けども動ぜずと言うではないか。どうしてたった一つの屁の字でやって来て俺と決着をつけようとするのだ?」

故に知解は役に立たず、証こそが有用であると言える。ある者は自分は明心開悟したと称するが、一たび境界に遇うと即座に転じられてしまう。その後、意識で自分を諭し、一時は良くなるが、境界が再び来るとまたも境界に転じられる。このように繰り返し何年も自主性を保てない。このような人は本当に証果明心したと言えるだろうか? 最も粗大な煩悩すら降伏できず、美しい異性に遇えば無視も無関心もできず、心は浮かれ自制できない。このような人が明心証果した者であろうか? 意識を用いて絶えず自分を抑圧し説得する凡ては、証ではない。真に証すれば、証した所まで必ず実践する。

少なからぬ人々も自分は鯉が竜門を跳んだと言う。しかし彼らは竜門の敷居を極めて低く設定し、あるいは敷居そのものを取り払い、容易に通り過ぎてしまう。実際にはこれは泳いで通り過ぎたのであり、跳んで越えたのではない。これは鯉の竜門跳びと言えるだろうか? このような竜門を泳ぎ過ぎても、依然として鯉であって竜ではない。


——生如法師の開示
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憶測推測は全く頼りにならない修行法である

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ある結論が意識による分析か末那識による思量かを判断する方法

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