衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年01月14日    火曜日     第1 回の開示 合計4313回の開示

結論が意識による分析か、意根による思量かを如何にして判断するか

1+1が2に等しいというのは意識心の思惟によって導き出されたものか、それとも意根の思量によって得られた結論か?1+1=2という結論について、もしあなたが確信を持ち、理路整然とその原理を明瞭に理解しているなら、それは意根から生じた結論である。たとえ1+1=2を計算できても、その原理がわからず、説明が曖昧でただ結論だけを知っている場合は、意識が学んだ理論を参照・比較して導いた結論であり、暗記に近い。そうでなければ、なぜ科学者は1+1が2になる理由を深く研究する必要があるのか?私たちが小学校から大学までに学んだ知識のうち、実際に実証されたものはどれほどあるか?試験に合格し満点を取っても、試験が問うのは知識の理解と暗記、知識量の掌握であって、実証を試すものではない。実験室での内容こそ実証に関わり、社会に出て初めて実証が求められる。だから多くの優等生は社会に適応できず、リズムについていけず、学びを実践に活かせないのである。

単独の意識思考で分析したものは疑惑を断ち切れず、因縁に遭遇すれば疑惑が生じ、以前の結論を信じなくなる。ゆえに意識思考の結論は不確固で、主人(意根)が疑いを持ち、主人が主張し、緊要時には助手(意識)の結論を否定して用いない。これが意識で悟りを得た者が退転し続ける理由である。意識の思考分析は禅定の補助がなくても、散乱心の状態で可能だが、禅定が深まるほど意識の思考は精緻・正確・適切・理に適う。しかしどれほど精緻でも意根自らが導いた結論ではないため、親証とは呼ばず、断徳がなく、受用がなく、生死を遮断できない。

意識の思考は往々にして意識自体が感知・観察でき、意識によって発見され得る。意根の思考に比べ浅薄で粗雑である。意根の思考は深沈で隠秘的、発見されにくいが、念々不断に継続する。深い疑惑が生じた時のみ意根が思量し疑惑を解決する。これが禅定に関わる。念々不断こそ禅定であり、疑惑の探究に定まるのが定である。時を選ばず何事をなすにも、覚醒時も睡眠時も、疑問が心にあり、解けなければ焦燥し、食事も睡眠もままならず、魂を失ったようになる。

意識が粗い状態では、意根の思考を感知できず、自心の事象に気づかず、真に何を欲し何をなすべきかわからず、自らの心思を掌握できない。故に多くの人々は意根を発見できず、理解できず、掌握できず、観察できない。意根で思量するには禅定が必須であり、禅定は深ければ深いほど良い。他の雑事の干渉を排除し、六識も意根を乱さず、ただ意根に軽やかに微細に了知させるべきである。意根に雑念を生じさせてはならない。


——生如法師の開示
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