1+1が2に等しいというのは、意識心の思惟によって導き出されたものか、それとも末那識の思量によって得られた結論なのか。1+1=2という結論を、もしあなたが確信を持ち、理路整然とはっきりとその原理を理解しているなら、それは末那識が導き出した結論である。たとえ1+1=2を計算できても、その原理がわからず、説明も曖昧で、ただ結論だけを知っているという状態なら、それは意識が学んだ理論を参照または比較して導き出した結論であり、暗記に近い。そうでなければ、なぜ科学者が1+1がなぜ2に等しいのかを深く研究する必要があるのだろうか。私たちが小学校から大学までに学んだ知識のうち、一体どれほどが現証を得ているのだろうか。試験には毎回合格し、百点を取ることもあるかもしれないが、試験で問われるのは知識の理解と暗記、知識量の掌握であって、現証を問うものはほとんどない。実験室での内容こそが現証に関わり、社会に出てから初めて現証が関わってくる。だからこそ、多くの優等生は社会に出ると適応できず、社会のリズムについていけず、学びを実践に活かせないのである。
意識単独の思惟分析によって導き出されたものは、疑いを断ち切ることができず、因縁に遭遇すると疑念が生じ、以前の結論を信じなくなる。したがって、意識の思惟分析によって導き出された結論は堅固ではなく、主人(末那識)が疑いを持ち、主人が主導権を握り、主人が自らの主張を持つため、肝心な場面では助手(意識)の結論を否定して用いない。これが、意識によって悟りの果を得て心を明らかにした多くの人々が退転を繰り返す理由である。意識の思惟分析は、禅定の補助がなくても可能であり、散乱心の状態でも行えるが、禅定が深まるほど意識の思惟はより精緻に、より正確に、より適切に、より理にかなったものとなる。しかし、いかに精緻で正確で理にかなっていようとも、それは末那識自身が導き出した結論ではないため、親証とは呼ばず、断徳がなく、受用がなく、生死を遮ることができない。
意識の思惟は、往々にして意識自体によって感知・観察され、発見されやすい。末那識の思量に比べると浅はかで粗雑である。末那識の思量は比較的深遠で隠微であり、発見されにくいが、念々不断に続けることができる。疑念が非常に深まった時のみ、末那識は思量して疑念を解決しようとする。これは禅定に関わることであり、念々不断であることがすなわち禅定である。疑念の探究に心を定めることがすなわち定(サマーディ)である。いつ何をしていようと、目覚めていようと眠っていようと、疑問が心の中にあり、理解できなければ焦燥感さえ覚え、食事も睡眠もままならず、魂が抜けたようになる。
意識心が粗い状態では、末那識の思量に無自覚・無知覚であり、気づくことができない。自分自身の心の内にある事柄を発見できず、自分が本当に何を求めているのか、何をしたいのかがわからず、自らの心思を掌握できない。だからこそ、これほど多くの人々が末那識を発見できず、理解できず、掌握できず、観察できないのである。末那識による思量には禅定が必須であり、禅定は深ければ深いほど良い。他の雑事の干渉を排除できるのが最良であり、できれば六識も末那識を妨げず、ただ末那識に軽く細やかに随順して了知するだけで、末那識に雑念を引き起こさせないことが望ましい。
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